エピソード92 忍の依頼と背後の殺気【お弁当のファンになった少女の願いを叶えるため、地底湖で遅刻魔を待ち続けるシェフ】
ジジッ……ギーン、ジッ……ジッ……。
静まり返った厨房の中――不規則な機械音だけが鳴り響く。
誰もいない。僕しかいない。客たちのざわざわした活気が、店の外から聞こえてくる。
店の横に停めたキッチンカーの前は、大勢の来客者たちで賑わっていることだろう。
僕は作り置きしていたソースを冷蔵庫に取りに来ていた――その頃……。
……少し前の話になる――カグラの追跡よりも数日前。
「お弁当屋さん……」
声に気がついて振り返る。そこには、小柄な少女が立っていた。焦りと不安が入り交ざり、珍しく遠慮しがちな彼女に僕は少し驚いたように言った。
「どうしたの? サラマンダーの火炎焼きなら」
「そうではなくて……――」
と、僕の言葉を遮り、切迫した様子のまま、少女――霧島忍は、どこかもどかしそうに続けた。
「私……お弁当屋さんのファンになりました。だから……――」
……何だろ? この展開。
「お弁当屋さん……いえ、ミナトさんのこと、私――……大事な人だから、思いを伝えたいんです」
「……思いを、伝える?」
ずいっと迫り、忍の顔が目の前まで近づいてくる。彼女の両手が僕の腕をひしと握りしめた。
「ミナトさん……。身勝手な思いかもしれないけど、気持ちを変えることなんてできなくて……」
ガタッ……。
忍と密着したまま、僕が何も言えずにその場にいると、お店の裏口から物音が聞こえた。
音の方に目を向ける間もなく、聞こえてきた声に、思わず僕はぴくりと肩をすくめる。
「湊さん、何してるのかな?」
引きつった笑顔の奥に殺気を抱きながら、勝手口の前で佇む朱里の姿に、僕は答えを見失っていた。
……きっと、何か誤解してるだろう。誤解か? それとも――。
「私、好きです。いえ、好きになった……のかな、と思うんです」
……何の話をしてるんだろう。
忍は僕の手を握ったまま、朱里のほうに向き直る。ぎゅっ、と彼女の手に力が入るのが伝わってきた。
「す、す、す、す、す……好きって、なんのこと?」
ぎこちなく、平静を装っている朱里の気配に、僕は一瞬、半歩ほど後ろに身を引いた。
「まだ、出会ってそれほど時間も経ってないけど……素直に向き合える、そんな時間を与えてくれたんです」
「湊さん。ちょっと……――」
朱里の手にも力が入るのがわかった。違うところは、その手にした双剣を両手で握りしめている点を除けば……。
「どうしたの……かな? 朱里さん」
とりあえず、僕は聞いてみた。多分、笑顔を装っていたが、顔は引きつっていたのかもしれない。朱里は無言のまま、僕たちの前に近づいてきた。
「私、大好きになったんです!」
ピキッ……。
いきなり嘆願する忍に、朱里は無言のまま立ち止まった。
「私、お弁当屋さんが作るお弁当が大好きで、また食べたいと思ったんです」
……え?
双剣に手をかけていた朱里の手から、すっと力が抜けた。
「……べべべべ、弁当?」
拍子抜けに口を開く彼女から、繰り返すようにしか言葉が出なかったのかもしれない。
「はい。お弁当です」
ひしっと向き直り、忍が僕の手をぎゅっと握りながら、確信に満ちた眼差しで見つめてきた。
「ご飯って、お腹が空くから食べるものだと思っていたけど。お弁当屋さんのお弁当に出会って、そうじゃないって気がついたんです」
人それぞれの価値観の違いはあるが……ワーカホリックの人たちが言いそうなセリフだ。忍の中で何かが見えてきたのかもしれない。
「何だ……お弁当の話か」
力が抜けて、その場で座り込む朱里に、忍は笑顔で返した。
「はい。とても美味しかったんです」
「そうよね。私もそう思う」
少し疲れ切った表情で返す朱里に、忍はスタスタと近づいていった。
そっと……――耳元で……
「……ライバルですからね」
と、小さな声だった。だが、僕に聞こえるようにか、それともわざと聞かせるようにか、忍は朱里にそう囁いてにっこりと微笑んだ。
「それって、どういう……――」
言葉を言いかけた朱里を遮り、くるりと振り返りながら、忍は言った。
「お弁当を届けてほしい人がいるんです。名前はカグラといって、私の大切な先輩です」
……きっと、お弁当屋さんのお弁当を食べたら、彼女の気持ちも変わると思うんです――……。
それが、忍からの依頼だった……――。
ポチャン……ツーツー……。
……魚たちは、僕に釣られるために、ここにいるか? それとも、僕が魚たちを釣るために、ここにいるか?
……どちらも真実になる。
誰もいない。誰も来ない。木々の遮る洞窟の中、僕は一人待っていた。
金山ダンジョンの奥――中層にある地底湖である。
――今日から手稲支部、金山ダンジョンに所属になる探索者カグラが、第七坑道ダンジョンに発生した二重ダンジョンを制圧に来る……。
忍からそう話を聞いていた。
僕は発生した二重ダンジョンの前で、早朝からカグラが来るのを待っていた……ただ、それだけだった。
ポチャン……。
いつまで経っても来ない客人に、しびれを切らせたナッツが、手稲の街を周回している彼女を迎えに行った。
それから……――しばらくして。
ナッツが帰ってきた。一人の探索者――カグラを連れて……。
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