エピソード84 牢獄のピクニック弁当と理《ことわり》の改ざん【出口のない迷宮をチートなハッキングで突破するお弁当屋のシェフ】
ぽたん、ぴちゃん……。
薄暗い部屋の中に、水音だけがこだまする。
ぽたん、ぴちゃん……。
寄りかかる背中には冷たい石の壁がある。左にも正面にも、それに似た荒削りで不器用に組み上げられた分厚い壁に囲まれていた。
ぽたん、ぽたん……。
湿り気のある部屋の中、天井に近い小さな格子のはめられた窓からこぼれ落ちてくる水の列が、足元に小さな水たまりを作っていた。
唯一、僕の右手側には見通しのいい素通しの壁があって、そこから外の世界を覗き込むことができる。だが、幾つもの分厚い鉄の棒の突き刺さる格子状に穴の開いた壁は、そこから出ることを許してくれなかった。
『……私たちは、もうここから出られんのか……?』
呆れたようにぽつり。耳の裏を器用に後ろの足でかきながら、ナッツはつまらなそうに念話を飛ばしてくる。
少し考えてから、僕は周りを見渡した。正面の壁にはその場で座り込む忍がいて、僕のすぐ眼の前の、鉄格子のはめられた壁を背に白い猫の姿があった。
「……あれからどれくらい時間が経ったかな」
僕の呟きは、格子窓から吹きつける風の音で、一瞬かき消される。
……僕たちは、ずっと牢獄に閉じ込められていた。
別に悪いことをしたわけではない。冷蔵庫のダンジョンポータルを通り抜けた先が、出口のない牢獄の中だった。それだけだ。
あれからどれくらい、牢獄の中で過ごしていたのだろう。時計のない部屋の中では時間を計るものは何もない。唯一、夕暮れだった陽の光は今はもうなく、代わりにくすんだ月明かりが窓の外から差し込んでいる。
……このダンジョンには、時間の概念はあるようだ。
もちろん、その時間すらも、ダンジョンの意のままに作り変えられるのだから、正確ともいえない。
びゅわんっ……。
僕が空間に指先で働きかけると、何もない場所に透明な揺らぎが生まれる。
「そろそろお弁当を食べようか」
僕がそう言うと、それまで体力温存のためか、それとも何も考えていないのか、すやすやと居眠りしていた忍が、ぱちりと瞬きして目を覚ました。
『大丈夫なのか……こいつ』
ナッツは深いため息を吐いて音のない声で言った。
「お腹が空いたら、いざとなったときに動けないからね」
「わーい。ご飯だ。一眠りしたらお腹が空きました」
ダンジョンに来る前にあれだけ食べたというのにか、と言わんばかりの顔で、白い猫は無邪気に笑う少女を見つめているようだった。
牢獄の中でピクニックか……初めての体験だ。
冷たい床の上に、亜空間収納から取り出した大きめのレジャーシートを広げると……――次いで、今日のピクニック弁当を取り出した。
金山ダンジョンで販売した残り物にはなるが、三人で食べるにはちょうど良い量だろう。
「どうぞ。オーク肉の濃厚味噌ガーリックステーキとスライムジュレの柑橘ソースサラダ、それに黒狼の燻製スモークサンドもあるよ」
シートの上に、お弁当を並べていると、ナッツもてとてとと近づいてきて、仕方なく席についた。
オーク肉にかぶりつきながら、ナッツは呟く。
『……あまり時間はないのだろう』
そう……。もうここにきて、しばらく経つ。そろそろ対策を考えないとならない。
……忍に考えはあるのだろうか――。
ちらりと、僕はサラダを口に運びながら、彼女のほうに視線を向けた。
「月光花のジュースだよ、飲む?」
急いで食べたのか、硬いハード系のパンをがしがし食べながら喉を詰まらせている忍がいた。僕はそっと器に注いだジュースを差し出す。
……きっと、何にも考えていないな。
僕が若干諦めかけていると……。
「このダンジョンは、罪でできているんです」
忍が言った。
……罪? どういう意味だろう。
「牢獄迷宮はいつも牢獄なの?」
それとなく僕が聞くと、サンドイッチを食べ終えたばかりの忍は、オーク肉に挑戦している。
「そんなことないです。水もなんにもない砂漠のど真ん中に突き落とされたり、突然深い水の底に現れて危うく溺れかけたり、マグマに囲まれた谷なんかとポータルが繋がったときには死ぬかと思いました」
「〜死ぬかと思いました」と、てへへ、とお茶目に笑う忍を見て、僕は笑えない状況に苦笑した。
彼女の話を聞く限り、召喚された場所が牢獄で良かったと……思っていたほうがいいのかもしれない。
「ところで、罪とは何なの?」
僕が聞くと、オーク肉の最後の欠片を飲み込んだ後で、忍は答えた。
「牢獄迷宮は、固有の罪を題材に作られていて、ダンジョンの全ての構造が罪から成り立っているんです」
……つまり、通常のダンジョンにある概念と理が反転しているわけか。
通常のダンジョンは、概念が主体となって世界が作られているが、牢獄迷宮は理を中心に概念が作られているようだ。
概念とは、理の示す器に過ぎず、意味のない形の中に意味があるようなもの。だが、理が先になると、目の前にある形を示す概念は、全てが意味を持っている。
……こういうことだろう。
「このダンジョンにある理の謎を解かないと解決できないわけだね」
「はい。そうです」
「そうとわかれば、そろそろこの部屋から出ようか」
「え?」
僕はそっと、はめられた鉄格子に手をかけた。
……解析――。
僕は能力を使った。鉄格子に施された術式を解析していく。
物質……鉄 70%:銅 30% = 約 63.09 kg……全長2メートル……直径7センチ……
その意味は……『この鉄格子は、中にいる者を外に出さないようにしている』
「どうするつもりですか?」
傍らでぼそりと呟く彼女をよそに、僕は展開させた術式を鉄格子に上書きした。
「これで、大丈夫だよ」
と言って、僕はそのまま鉄格子の中に入っていく。
そこにはもともと何もなかったように、僕の身体は鉄格子をすり抜けた。
『理の改ざんか……』
ナッツが呟きながら、透明にでもなったように何食わぬ顔で鉄格子を通り抜けた。
「何してる? 探索に行くよ」
「でも……――」
まだ牢獄の中で、外にいる僕たちを見ている忍は、どうしていいのかわからずに立ちすくむ。
「あ、大丈夫だから……もう、その鉄格子は意味をなさない」
僕がそう言うと、さすがの能天気な忍もためらいながら鉄格子にそっと手をかけた。
「きゃっ」
思わず、バランスを崩してその場に突っ伏す。
あるはずの鉄格子に体重をかけようとしたため、拍子抜けして倒れてしまったのだろう。
「これは、どういうことですか?」
……一言だけ理を付け加えたのだ。君が中で僕が外にいる……――と。
きょとんとしている彼女に説明するよりも早く、僕は石の壁の通路の先に目を向けた。
気配があった……――何かがいる……。




