エピソード82 牢獄迷宮《プリズンダンジョン》の入場料は1100万円【賄賂で開く扉と、全財産を失って咽び泣く少女を見守る弁当屋のシェフ】
――牢獄迷宮……。
その名の通り、そこは檻の中に囚われた魔物たちが住処にしている異なった世界。忍――彼女いわく、ダンジョンには固有の規則が存在し、各ダンジョンごとに付与された条件に基づいて、牢獄迷宮は構築されていると言っていた。
……不規則に構築された世界に依存している部分は、ランダムダンジョンに似ている。だが、一つ違う点があって、誰にでも入れるものではなく、罪の証明が必要となるという。
(だから、通称「マザー・グースの檻」と呼ばれてるわけか……)
とはいえ……こちらもハンバーグの檻を何とかしないことには、弁当の仕込みに差し支える。
亜空間収納もあるのだが……時間を止めて保管することはできても、冷蔵庫のように冷やす機能はないのが欠点だ。
厨房の奥。さほど広くもない部屋の中、壁伝いに棚と調理台があって、その隣――業務用の冷蔵庫の前で、忍は足を止めた。
僕は冷蔵庫の扉に手をかけると、忍の顔を窺った。
「いいかい? 開くよ」
「任せてください」
彼女の返事を待ってから、吸い付くようなゴム板の重さを感じた後、ゆっくりと冷蔵庫を開いた。
ゾッ……。
渦巻くようにして、旋回している空間の歪み。そこに現れた不気味な異空は、明らかにこことは違う別の景色を映し出している。
「この理由もなく漂ってくる悲壮感は、間違いなく牢獄迷宮特有の魔素です」
それに……と、忍はそっとダンジョンに手を差し出すと、バチンッと彼女の侵入を拒むように異空は歪み震えた。
「これも魔素の一種なのか……」
栞奈は、目の前にある、目に見えない力の奔流を感じながら納得したように呟く。
……研究者の彼女にとって、異なった魔素で作られた世界は興味の対象なのだろう。
「これより、牢獄迷宮の攻略を始めます」
忍がそう宣言すると、僕たちは無言のままこくりと頷いた。
ピリリッ……空気が一瞬だけ、乾いた音を打つ。忍は両の腕を交差させるように構えると、微かに口元が音のない言葉の羅列を刻んでいった。
……何かの術式――。
「アマト・アヴァリティア《断罪の銀秤》!」
ブワッンと、彼女の目の前にあったはずの空間が膨れ上がる。
交差した手を解き放ち、床に手のひらを向ける。そっと指先が足元の冷たい床に触れた瞬間だった。
ズボァッ、ドドドドドドドドッ……。
空間が震え、非科学的な揺れが部屋の中を襲う。
どろどろに溶けた床からは、銀色をした獅子の頭部がせり上がり……それを支える太い脚のようなもの、獅子の広げた両手は、まるでワニの顎のように大きく口を開いている。
「……話し合いの準備はできました」
忍がすっと立ち上がると、銀色をした巨大な秤を見つめて言った。
……銀獅子の天秤か。
カシャカシャ……カシャカシャ……。
天秤は左右の皿を揺らすと、銀の鎖が音を鳴らして踊る。
あの声だった。音もなく、強烈な魔素を含んだ声が脳の中へと直接流れ込んでくる……――。
『汝、その身に刻みし罪と罰を答えよ』
ワニの口のような皿をちらりと見ながら、忍はゆっくりと目を閉じ……呼吸を落ち着かせるようにして、そのまま問いに応じた。
「断罪の意思を受け取る、この身をもって罪人の咎の戒めを改めよ」
瞬間だった……。
忍が言葉を言い終えたすぐあと、天秤の皿の片方が、グンッ、と傾き揺れる。
……心臓?
皿の上に出現したのは心臓を模した何か……――ダンジョンの門が与えてきた問いのようなものだろうか。
「供物を捧げ、我が罪を対価とする」
忍に呼応するように、声の主は小さく頷いたように思えた。
ガシャンッ! と……もう片方の空の皿に重みがかかる。
「金よ! 我がために働け!! 金、1000万円!」
……金? って、あのお金のことでいいのか。
忍の両手が天を仰ぐように広がり、そして、頭上から……――。
どさどさどさどさ……。
上から大量の札束が降ってくる。彼女の声に応えるようにして、空間に開いている穴の奥から、お金の束が天秤の皿に降り注ぐ。
えーと……これ、は? 何だろう。
気になって、僕は忍に聞いた。
「どういうこと?」
「これは経費です。私のお金じゃないんです」
お金のことを問いただしたわけではないのだが、忍は一生懸命に弁解してくる。
……僕の知りたいのはそこではなくてだ。
困惑する僕の顔を見て、忍は気がついて話を始めた。
「牢獄迷宮に入るには、罪と同等の対価が必要になって、支払うと罪の深さに応じて門が開かれる仕組みになっているんです」
……つまり、賄賂を渡すようなものか。
地獄の沙汰も金次第ということなのだろう。
「あ」
天秤を見ていた忍の顔に動揺が生まれた。
「どうしたの?」
僕が尋ねると、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「まだ少しお金が足りないみたいです」
たしかに天秤の左右の皿をよく見ると、釣り合っていない。心臓の形をしたものが乗せられた皿のほうが、幾分か下がっているように見える。
「仕方がない……えいっ! 追加の100万円……」
思い切って、ぎゅっと目を閉じながら忍が叫ぶと、亜空間の中から札束が一つ、どさりと皿の上に乗った。
ガッ……と、天秤の皿は左右に揺れ動く。その反動は徐々に小さく刻まれていってから、ぴたりと動きを止めた。
『汝、罪を背負う者よ。しかと受け止めよう』
天秤が釣り合うと同時に、虚空から鳴り響く音のない声のあと、供えられた供物は天秤の中心へと吸い込まれていった。
「良かったです。でも、私のポケットマネーが全部なくなりました……しくしくしくしく……」
……賄賂が成功したのだろうか。
すすり泣く忍をよそに、銀獅子の天秤は満足したように、何もない虚空へとその姿を消した。




