エピソード113 不自然な季節のキャンパスと恵迪寮【ペティナイフの代わりに筆を握り、ハイカラモダンな女子学生になっていたシェフ】
音……。
石を踏む音、波の音、鳥の鳴き声、自動車の警笛、街を行き交う人の群れ……。
様々な音の重なりが、脳内を通して全身に伝達されていく――感覚が聴覚に絞られ、やがてぷつりと途切れる。その後に。
現実世界から異界へと落ちていく感覚……その瞬間には、あらゆる音の流れが混ざり合いながら、身体の中へと溶けていく。
構造は、未だ解明されていない……――。
ダンジョンの入り口――ポータルを空間移動できるものは、重奏と呼ばれる覚醒者だけ。それ以外の人や動物が、無理に通過しようとすれば、肉体の原理は破壊される……と言われている。
(そろそろ到着する頃かな……)
意識はある。だが、肉体の感覚はまだない。
ゴトリ……。
感覚のないまま、力の入らない肉体はどこかに投げ出された。
(どこだろう……ここは――)
平衡感覚はある……。
僕は今、どこかで倒れているようだ。指先すら動かせないほど、身体は重く……そう、冷たい床の上にいるようだった。
カタカタ……カタカタ……。
(何の音だろう……)
建付けの悪い木枠が震えるような音が聞こえる。
ガタン……ドドン……ガタン……ドドン……。
遠くの方から、重い音がこちらへと近づいてくるのがわかった。
……逃げろ!
声――音、聴覚が何かを捉えるよりも早く、脳内に浮かび上がる言葉。ぼやけた視界が鮮明になるよりも早く、僕はその場から飛び退いた。
ドゴンッ!……――
そこに何かがいる。僕が今までいた場所に、生き物の持つ息づかいと、鼻をつく獣の臭いが危機的な状況を知らせていた。
(魔物か……――)
とっさに、僕はエプロンにしまっていたペティナイフを右手で探す、掴む……。
ぼやけた視界の向こう側、徐々に見える輪郭は、全身を毛で覆われた熊型の魔物だった。
(……えっと、エプロンつけ忘れたっけ?)
手にしたはずのナイフはなく、代わりに筆が握られていた。
ゴギャアアアアアッ!
けたたましい雄たけびを上げ、魔物は分厚い腕を振り回し、爪を光らせ振り下ろす。
……付与能力――硬化付与!
手にした筆が、振り下ろされた斬撃をかろうじて防いだ。
……間に合った――。
(だけど、この後どうしよう……)
予想を超えて魔物の力は強い。術式の付与された筆は、みしみしと音を立てている。硬化付与だけで押し切ることはできそうもない。
(にょわっ?)
何かを踏んだ。足元を確認する間もなく、体勢が崩れる。そのまま僕は後ろ向きに倒れ込んだ。
……まずい!
すぐ目の前には、魔物の鋭くとがった牙が迫っていた。
「こっちだ! レイ!」
腕を取られ、そのまま引き寄せられる。間髪入れず、魔物の爪は床を切りつけた。
「話はあと。すぐに逃げるよ」
僕は言われるがまま、声の主――青年の背中を追いかけた。
――見覚えのある場所。
一階に続く階段の踏み板、壁に整列された棚……でも、古書はない。本の代わりに、昆虫の標本が保管されている。
小さめな四角い窓に……正面には、大きな鉄の扉――。
ひぎぃいっ……と、音を響かせながら、青年が扉を開くと、そこには森の景色が広がっていた。
……エルムの森――。
僕の知っている場所とは違って見えるが、ハルニレの木々が立ち並ぶ森、匂いはエルムの森で間違いない。
(それじゃあ……もしかして――)
振り返ると、そこに赤い屋根の石蔵があった。
この場所は、北海道大学の構内だ……――いや、大学を模したものか、それとも――。
「何してるんだ! レイ! 走れ……」
……レイ。それは僕のことだろう……か?
先を行く若者が、僕のことを見てそう言っているのだからそうなのだろう。
「待って……今行く――」
状況がつかめるまで、彼の後についていこう。
だけど……。
当然だが、この森も建物も、空も木も、空気すらも全てが本物ではない。動かない太陽と、紅葉した木の葉、その真下にはシロツメクサが咲いている。
……ここはどこで――何を示しているのだろう。
「レイ、こっちだ」
少し離れた先、木造の建物が見えた。近くに魔物の気配はない。それは意図的なのか、本当にいないのか……その答えはわからない。
「ちょっと、待ってよ」
やや息を切らせながら、僕は若い男に追いついた。
「さっきから、レイって言ってるけど……」
「キミのことだろ?」
……やっぱり、『レイ』とは僕のことらしい。
「まさか、僕のことを忘れてないよね? カイだよ。同じ学部の……」
そうか……。僕は――レイは、この大学で学ぶ生徒で、目の前にいる青年はレイの同級生になるようだ。
「カイ、聞きたいことが……――」
「まずは中に入って」
促されるまま、僕はカイの後についていく。
恵迪寮――……建物の壁に下げられた木札にはそう書かれていた。
カイは引き戸の鍵を開けると、中に入っていった。
「僕にもわからない」
建物の中は、薄暗く人の気配はない。彼以外に誰もいないようだ。
続く廊下を歩きながら、カイはそう言った。
「あれ……は、その――さっきの……」
どう聞いたらいいのかわからず、僕は言葉を探していた。
「相変わらずだな、レイは――」
……そうなのか?
僕の姿を見て笑いかけるカイの顔は、昔から知っている友達に見せるものだった。
「……魔物でしょ」
「そう、その熊のようなもの――」
「僕も困ってるんだ。急にこんな場所に飛ばされて……」
……やはり、この人ーー
このまま様子を見るか、それとも――。
廊下を歩きながら、僕は洗面台の前を通り過ぎ……ふと、鏡の方を見た。
「これ、誰……?」
鏡の前には、メガネをかけたハイカラモダンな袴の女性が一人立っている。
(僕……で、いいんだよね……多分)
腕を伸ばしたり、ぴょんぴょんその場で跳ねてみるが、どうやらその姿は僕のもので間違いないようだ。
……この人が――言い方として、適切な言葉が見つからないが、鏡に映る人がレイという学生なのだろう。
「どうした?」
「あ、いや……何でもないよ」
カイに問われ、僕は慌てて両手を振りながら誤魔化した。
……これも、牢獄迷宮の影響か?
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