エピソード111 魔素融合実験と「何もない」部屋【見えない事象の力を紐解き、夜のエルムの森へと向かうシェフ】
草木が揺れる……――。
ぶつかり合う葉音は、森を静かに震わせていた。
ざむ。ざむ。ざむ……。
夕の光が金色に染まる頃、昼と夜の境界線へと、徐々に足音が近づいていく――。
夕暮れには鬼が出る、という謂れも聞いたことがあるが、二つの世界が反転するとき、同じはずの風景も、その意味を反転させてしまうのだろう。
ざむ。ざむ。
徐々に見えなくなる足元。その暗がりの中、風の音が僕たちのすぐ後ろにあるはずの影を追いかける。
昼と、夜……。
景色の変わった大学の構内は、夕闇の気配に身を投じていた。
僕は今――夕陽の沈む森の中を歩いていた……。
……――少し前。
「これは、魔素融合実験のための部屋です」
そう案内したのは、学生――蓮沼だった。
弁当の販売は無事に終了。それなりに反響もあった。北大祭に参加する案もできるくらいだった。
急ぎ、後片付けを終え――生徒たちに案内された僕がやってきたのは、魔学研究院の第七棟になる。
棟内のずっと奥……――。
青と白の光が薄く漏れ出す部屋の中。室内には、術式を施した小さな明かりたちが、壁に連なり浮かび上がる。
「この部屋は?」
「水島先生の研究室です」
僕が誰にとなく言った呟きに、答えたのは蓮沼だった。
(……化学というよりも、オカルトに近いかも)
術式の施された机の上、壁の棚には、様々な遺物のようなものが並べられている。
……ダンジョンからの出土品だろうか。
オカルトな儀式の空間の先……――。
(水槽……? それとも、何かの装置か)
部屋の中央。その奥に……幾つものガラスの柱が立ち並ぶ――円柱型のガラスの水槽、中には透明な液体が入っているようだ。
「水? それとも、何かの薬品かな……」
見た目は、ただの水に酸素が送り込まれているだけの水槽にしか見えない。僕は試しに学生たちに聞いてみた。
だが、彼女たちは静かに首を振る。
「……わかりません。水島先生のラボには、私たちも用事のある時以外は出入りが禁止されているので……」
木ノ宮は先ほどまで元気な声ではない。何かを警戒するように、トーンを落としてそう答えた。
『……妙なものを作っているようだな』
脳内に響いた声は、白い猫――肩に乗ったまま、ガラスケースを見つめている。
……おおよそ、想像はつく――。
「魔素と魔力の融合体……この液体は、理と概念をぶつけ合うための機械のようなものだね」
……カエデのことだ。純魔素の実験でもしているのだろう。
「わかるの? これ」
驚いたように、ミナミは言葉を漏らした。その表情は好奇心に溢れていた。
「これを見て……中心に、魔素石が設置してあるよね」
「う、うん」
「魔素を永久放出しているのが、この石で……――」
僕はガラスケースを上から下までを見回しながら、水槽の下部にある術式を発見する。
……恐らく、この術式の下に――。
「多分、ね。ここ、この下に魔力鉱石が設置されている。魔力を拡散する動力源として、術式には風を起こす能力が使われているみたいだね」
「先生……弁当作り以外にも、すごい」
……そして、魔素と魔力を融合し結晶化する実験器具――つまり、純魔素の製造のための実験だろう。
魔力の流れがわかるミナミは、ガラスケースをじっと見つめながら、僕の言葉を聞いていた。
重奏として覚醒したものには、魔素と魔力の流れを五感により感知できるが、非覚醒者にはただの水にしか映らない。
(試しているのか? それとも)
……だがこれで、カエデが僕たちをここに連れてきた理由はわかった。
「カエデ……――水島先生は、他に何か言ってなかった?」
僕は学生たちに聞いた。
……カエデからのメッセージは、まだ他にあるような気がしたからだ。
少し考えてから、ミナミの視線が左奥に向けられる。
「部屋の奥には、とても重要な実験を行なっているから、絶対に近づかないように。お弁当屋さんも、絶対に中に入れてはダメ……」
……そうか――そういうことなら。
『入らないのか?』
そのまま帰ろうとする僕の横で、白い猫が念話で面倒そうに聞いてくる。
「カエデが『入るな』と言うんだから、それに従わないとね」
「せ、先生、こうも言っていた。もしも、何もせずに帰ろうとしたら、部屋に鍵をかけて出すな……と」
ミナミは慌てて、僕たちの前に立って説明してくる。
『……どういう意味だ』
「真実は一つじゃない、こう言いたいんだよ」
『何の話をしている?』
「何の話でもいいんだよ。事象というものは、形で作られているわけでなく、形に力が加わることで発生しているものだからね」
『さっぱり、わからん』
……だから、僕は帰る選択をしたのだ。
「先生? 何してるんですか」
声をかけてきたのは蓮沼だった。僕は何食わぬ顔で、ドアの前でノブを握る。
「何って、帰るんだよ」
「でも、そこは……――」
……そう。ここは、僕たちが入ってきたドアではない。
左奥にある、カエデが「入るな」と言った場所である――……。
バンッ……。
僕はドアを思い切り開けた。鍵は掛かっていない。術式による結界も見当たらない。
それもそのはずだ……――。
「どういうこと……」
部屋の中を覗き込み、最初に声を出したのは木ノ宮だった。
何もない部屋。明かりもなく。薄暗い。家具や机といった類のものも含めて、何もない空っぽの部屋だった。
「答えは、あると言えばある、ないと言っても、あるものはある……――きっと、水島先生が伝えたかったのは、こういう意味なんだよ」
目の前で起きている出来事についていけず、学生たちは、何もない部屋をじっと見つめていた。
『もっとわかるように説明してくれ……気になって眠れなくなる』
……状況を飲み込めていないもう一匹がここにもいた。
カエデからのメッセージを受け取ったあと……――。
僕とナッツは、生徒たちの案内で暗がりの森の中を進んでいた。
ざむ。ざむ。ざむ……。
夕暮れ時の構内は、昼と違い寂しげな印象を受ける。こと、森の中――魔学研究院の裏手、エルムの森は、高いハルニレの樹林に囲まれ、僕たちの影すらも飲み込んでいた。
「遅かったわね」
僕たちが到着すると、壁に背を預けたままカエデが不機嫌そうに言った。
「カエデがおかしな宿題を出すからだよ」
「生徒のためよ」
「だったら、直接言えばいいのに……」
「こういうのは、体験しないとわからないものなのよ」
……こういうところがさ――僕は、ちらりとすぐ後ろにいたミナミと木ノ宮のほうに視線を向けると、カエデの顔をただ黙って見つめている。
(こういうところが、生徒たちと距離を作る原因なんだよ……)
と、僕は小さく嘆息した。
「ところで、ここは何の建物?」
僕たちが案内された場所は、石造りの古い建物だった。暗くてよく見えないが、それほど大きくはない。石蔵のようにも見える。
「実はね。ミナトに来てもらったのは……――」
言いかけてから、カエデは施錠された扉の鍵を外す。
「……解錠――」
彼女の手のひらに、小さな輪を描く術式が浮かび上がる。ガラスが割れたような音が響き、カチャリと扉の鍵が開いた。
「とにかく、入って……――」
扉に手をかけたときだ、カエデの手がぴたりと止まり――その直後。
プシュワアアアアッ……。
大気を揺らす音の響き、白の景色が辺りを覆う。視界は奪われ、何も見えず、カエデは慌てて、後ろに下がる。
……霧。何かの術式――。
魔力が膨れ上がる気配。それと同時に、重い鉄を引きずる音が鳴る。
恐らく、狙っていた――カエデが解錠する、この瞬間を……。
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