エピソード109 重力嵐気《グラビティ・テンペスト》と魔法の圧力鍋【深層の魔物を倒す高位術式で、スライムの肉を美味しく煮込むシェフ】
呼吸の中に……――。
小さく流れる魔力の道。
閉ざされた暗闇は、重い扉に塞がれ、立ち込める息すら封じ込めている。
その偉大な奔流の前に、成すすべもなくその身を投じる者たち……。
視覚の奥……ずっと遠くにある光の粒子たちが、魔力の波動を感じ取る。体の中を巡り、凌駕していく振動は、やがて指先へと伝導され――五感の触覚に波を教えてくれる。
……襲撃!
その二文字が頭の中心を駆け巡る……――そして。
喧騒が止む。食堂にあるはずのざわついた雑音が無に返り、音の無い世界が現れる。まるで、静かな湖面に一滴の水のしずくがぽちゃりと水紋を描くように円を作っていく。
……来た。何者かの気配が肌に触れ、閉ざされた箱に封じられた魔物の肉片は、僕に「今だ!」と伝えているようだった。
――合図だ。そう感じた瞬間に……。
術式展開……――。
そっと脳裏に目に見えない線と文字の世界を思い描く。その後で。
「……」
魔力の流れを感知したミナミが、ごくりと息を呑む。
若干、震えた彼女の肩は、忘れたはずの息づかいを思い出して一瞬……上下する。
不融氷結晶――!
僕の音のない言葉に反応し――目の前の箱……魔物の眠る鍋の中に、小さな氷の塊が出現するのを感じる。
「今のは……」
一瞬、ぼわんと光の波状が鍋から広がり収束していく様子を見ながら、ミナミは呟いた。
『溶けない氷の術式だ……』
「氷?」
白い猫は少し離れたカウンターの上にいる――意識を集中している僕の代わりに、ナッツがミナミに説明した。
……五感の僅かなためらいも、術式を不安定にさせ、影響を与えてしまう。そのことを、ナッツも知っていたからだろう。
鍋の内側には、あらかじめ用意された術式――絶対隔離の中に放り込まれた材料たちが、これから始まる舞台の役者を務めている。
蓋のされた鍋の中には、刻んだ生姜を中心とした香草、ドライシェリー(辛口白ワイン)を加え、そして、水創造で純水に浸された主役――ステーキほどにスライスされたスライムの肉たちの姿があった。
鍋と、そして、肉との真剣勝負。相手との間合いを見誤ると、次の瞬間にはすでに僕は敗北しているだろう。
……それだけ、スライムの肉を美味しく食べることは、一流のシェフでも気を使う食材なのだ。
僕は次の術式を脳内に刻む、叩き込む、構築していく。
……術式展開――座標指定、展開速度、持続率、五感の全てを解放――熱量圧縮!
力ある言葉が、空間に響き渡る。鍋の中に仕込まれた氷の塊が、強烈な熱量を帯びた火の領域に支配されていく。
(時間がない……っ!)
僕はすぐさま、次の術式――重力嵐気を発動する。もちろん、鍋の中、氷と炎の共演する舞台の中だ。
「どうなっているのか……?」
魔力の流れが乱気流のように、厨房内を吹き荒れている。非覚醒者には感じ取れない空気の流れだが、ミナミはそれとなく受け取っているようにも思える。
『強化圧縮の術式を展開させたのだ』
「んんん……? なんだそれは――」
ふぅ、とため息をつきながら、ナッツはミナミに説明した。
『並の探索者には扱うことのできない高度の術式だ』
「……」
『氷はおそらく溶けないもの、そこに純水を加え、高火力を一点集中させ――重力波で抑え込む』
「それは……つまり――!?」
ミナミも気がついたのか、驚きの表情を浮かべている。
『そうだ。圧力鍋だ』
高難易度の術式を幾重にも展開させ、深層の魔物すらも一撃で倒せるほどの威力を持つ魔力の術式を使い、僕はスライムの肉の眠る鍋に全てを投入した。
これこそが、スライムの肉を美味しくする調理方法なのである。
僅かな温度の変化でも、肉は硬くなり、水に戻る。この二つの作用を持つ肉の特性は、とても繊細なものだ。
(必要なのは、火力……そして、時間――)
……解析――五感を第六感へと変換させると、僕は閉ざされた鍋の向こう側を見る。
加熱領域90%、水分量50%……。
(水分が多いな……)
――亜空間収納、開閉――鍋の中の水分量を20%吸引……。
(これで、あとは……)
加熱量を少しずつ落としていく……と。
「終わったの……か?」
ぽつり、とミナミは言った。それを隣で見ていた白い猫は静かに首を振る。
――速度強化――。
僕は鍋に向けて、時間を早める術式を展開させた。
今の火力と水分量だと、いずれ水分が最初に枯渇してしまう。だから、鍋の中の空気圧の速度を速めた。
「完了。あとは……待つばかりだ……」
それまで集中していた意識をいったん閉じ、僕は小さく息を吐いた。一瞬、肩が揺れたのを待って、ミナミはそばにやってくる。
「すごい……探索者の能力には、こんなこともできるのか」
「……能力も使い方だからね。必ずしも魔物と戦うためにあるんじゃなく、本当は身を守るものなんだよ」
「身を守る……勉強になる」
目を輝かせながら、ミナミはすかさずメモ帳に何かを書いている。
……そんなに大したことは言ってないけど。これも、客員教授としての立場があってのことだろう。
「次はソース作りをしよう」
「はい!」
ミナミの良い返事が厨房に静かにこだまする。
先ほど、彼女に準備してもらった水溶化したスライム――寸胴の中は、透明な液体で満たされていた。
……余計な魔力数値が混ざっていない。
(意外と才能があるのかもしれないな……)
ちらりと、僕は彼女のほうに視線を向けた。
だが、未来ある若者を弁当屋にスカウトしたら、カエデにどれほど怒られるかわからない。
「どうしたのか?」
「何でもない。そろそろ始めよう」
……その前に――液体の蒸発を防ぐ必要がある。
大きな鍋に、加温障壁の術式を施す。鍋の壁、その外側に熱が漏れないようにするものだ。
「ここに、ブレンドした香草を入れて、コカトリスの鶏がらスープ、それにドライシェリーを加えてから……」
あとは、ゆっくりと木べらで混ぜていく……。
「やってみる?」
「はい!」
真剣にメモを取っていた彼女の視線を感じ、僕は木べらを彼女に任せた。
あとは……仕上げだ。
スライムの肉の可能性を最大限に引き出した弁当が、間もなく完成する――。
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