エピソード107 ナッツ先輩のキャンパス散歩【食堂へ向かうはずが、牛や羊のいる牧場へと案内されてしまうシェフ】
ふおぉ〜ん……。
暇を持て余した白い猫が目を覚ます。
気の抜けた鳴き声をもらしながら、ナッツは大きなあくびをした。
――講義を終えてから、寝ぼけた猫を肩に乗せて講堂を出たあとのことだった。
『……終わったのか』
「よく寝てたね」
『猫だからな……寝るのが仕事だろ?』
白い猫は小さく呟いてから、二度目のあくびをした。
魔学研究院はいくつかの棟に分岐している。それは、複数の学部で成り立っている組織になるからだ。
水島楓教授――カエデが所属しているのは、魔素学研究室になる。今回、僕の講義を聞きに来た多くは、カエデのゼミの学生たちだろう。
『面白いものがあるな』
肩越しから覗き込み、ナッツが少し離れた場所に視線を向けてそう言った。
「小粒竜の剥製か……」
名前ほど小さくはない。立ち上がると人の背丈よりも低いが、尻尾までを測ると大型犬よりも幅がある。
……思ったよりも状態が良い。腕の立つ探索者の仕事だろう。
『ミナト、面白いぞ。これを見てみろ』
大はしゃぎで声を出す白い猫に、僕は慌てて口を塞ぐ。
(声を出すとまずいから……)
『どうしてだ?』
すると……――
「その猫、言葉を話すのか?」
後ろからだ。声が聞こえた。
……どう誤魔化そうか。魔物使いとか言って、能力で従えるとでも言っておいたほうが良いか……。
僕が頭の中でいろいろと考えているときだ。
肩からひょいとナッツは飛び降りる。
『……興味深いな』
言ったのは僕にではなく、後ろにいる一人に向けてだ。白い猫を見て、声は答える。
「名前はあるのか?」
『ナッツ様だ』
……あぁ、もう普通に話してるし――。
僕は思わず頭を抱えてため息を吐く。
そんな人の心配をよそに、振り返ると偉そうに四つ足で仁王立ちするナッツと――その向こう側に、一人の学生がしゃがみ込んでいるのが見えた。
「キミは、確か……」
講義の終わりに、スライムを生で食べようとした子だ。
「ミナミ……さん?」
「先生の猫……可愛い」
『特別に触らせてやってもいいぞ』
……だから――。
僕が何かを言おうとすると、ミナミは猫の体を抱き上げた。
「心配ない。慣れてるから……私のお母さんは探索者で魔物を使役している。先生の猫も何か特別な理由があることもわかってるから――」
……魔物使い――探索者の能力に、魔物を従えるものもある……と、聞いたことがある。
「私は重奏でないから、能力は持ってないけど、何となくわかる……魔素の流れとかも――」
言って、小さく笑った。
覚醒は遺伝しない。親から子へと受け継がれるものでなく、あるときから突然に発現するものだ。
……ナッツが妙に慣れてるのも、ミナミの母親の影響によるものだろうか……。
「先生はこれから食堂に行くのか?」
猫を抱きかかえ、ミナミはスッと立ち上がった。
「うん。弁当の仕込みに行くよ」
「そうか」
ミナミの表情がどこか寂しそうだ。名残惜しそうに白い猫を抱きしめている。
「猫、好きなのかい?」
「こうしてると、思い出す……子供の頃、お母さんと一緒に入ったダンジョンの日のこと……」
……ダンジョンに子供を連れて行くのはどうだろうか……。
危険を伴うものの、探索者になるための英才教育の一環としてはいいのかもしれないが……――。
「魔物と一緒に戦ったとき、お母さんは強かった。それを思い出しただけ……――じゃあ、私はもう行く」
「待って」
「どうして止めるのか?」
「ナッツさんは置いていこうか」
「あ」
言われて気がつくミナミの視線が、白い猫をじっと見つめていた。
「やっぱりダメか」
僕が静かに首を振ると、お気に入りのぬいぐるみを手放したくない子供のような表情で寂しそうにうつむいた。
「じゃあ、私も食堂に行く……案内してあげる」
……頼んでないけど――。
(このまま、ナッツさんを誘拐されるよりは良いか……)
「わかった。お願いしてもいいかな?」
「ありがとう」
ミナミの表情が心なしか明るくなった気がした。
……案内してもらう側がお礼を言われるのも、何だか不思議な気持ちだが……
実際に歩いてみると、北海道大学の構内は広い……――小さな町と言ってもいい。
魔学研究院のほか、文芸学部、理系学部を含めると十三学部が敷地内に研究院を連ねている。
魔素抜き弁当の実演に向かう先、食堂の場所も一つではない。そういった意味では、ミナミに案内してもらうのは正解だった。
とぽとぽ……とぽとぽ……。
相変わらず、白い猫は小柄なミナミに抱かれたまま、連れ去られているが――。
「先生も探索者なのか?」
少し前を歩く彼女は言った。
……どう答えるのが正解だろうか。僕は弁当屋だし、ダンジョンには魔物を仕入れに入っているだけ、というのが本音になる。
「どうした、答えたくないならいい」
「……そうじゃなくてね。僕は即応探索者で、弁当屋をやってるんだよ」
「ラビットの鹿……?」
知らない単語に、ミナミは表情が一瞬困惑するのが分かった。戸惑いながら何かを考えている。
……困らせてしまったかもしれない。
やれやれと小さくため息しながら、ナッツが僕の代わりに続けた。
『たまにダンジョンに入って、肉を仕入れに行く探索者のことだ』
「それなら、わかる」
『そうだろう』
……意味は間違っているが、彼女が納得したならそうでもいいか――。
初夏の優しい風が小さく葉を揺らす。樹林に満たされた学院内を歩くのは、散歩にはちょうどいい……――。
仕事明けなら、ずっとこうして平和な時間を満喫していたいところだが、気がつくとポプラ並木の先……牛たちがくつろぐ牧場に来ているのは、どうしてだろうか――。
「食堂は羊と子豚のいる小屋の近くだっけ?」
気になって、僕は前を歩くミナミにそれとなく聞いてみる。
「少しだけ……遠回りした」
……確信犯か!
「大丈夫。あと少しで着くから、もう少しだけナッツ先輩といさせてほしい」
『私は構わないぞ』
……僕は仕込みが遅れるから困る。
そんなやり取りをしながら……。
目的の食堂についたのは、それから――しばらくしてからのことだった。
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