エピソード99 赤い霧と不死者の冤罪【味噌ラーメン味のまんじゅうを毒味し、少女の秘密に耳を傾けるシェフ】
シュ、シュシュ……。
赤い霧――。
シュ……シュ……。
理が望むと、概念が作られる。平等性の欠片もなく、概念の崩壊は死を意味し、理は理屈の定義のみでそれを超えることはできない。
シュ、シュシュ……。
赤い霧――追いかけるようにして、立ち込めた霧たちが僕の後を追いかけてくる。
「私は……」
と、僕の背中で微かに力のない声が漏れる。カグラの声。背負った少女の身体は軽く、その存在すらもこの世にはないように思えるほどだ。
タッ、タッ、タッ……。
走るのを止めず、僕はそのままカグラの声に耳を傾ける。
「大丈夫だよ。もうそろそろ安全な場所につくから」
吐息のような声が漏れ、彼女から言葉は消えた。眠りについたのだろう。
トッ、トッ、トッ……。
魔物たちの気配を遠くに感じ、僕は静かに辺りを警戒する。
少し離れた後ろから、白い猫が後から続く魔物たちを追い払う。
シュ、シュ……シュシュ……。
赤い霧――僕の影を追うように、霧は主を追いかける。
(眠ってる……)
肩越しに背負うカグラを見やり、両手でしっかりと足を抱えると、脚力強化の術式で瓦礫の山を飛び越えた。
山の上から、ひょっこりと顔を出す白い猫。白い尻尾がぴんっ! と立って、魔物の叫びを一掃させた。
『……片付いたぞ』
ナッツが追いかけてくる魔物たちを黙らせたあと、僕は背負ったカグラを地上に下ろした。
……ここは安全。というわけではない。だが、カグラの様子も気になる。
理は平等に与えられていたとしても、概念はそれぞれ違う。生きる意味も、死の瞬間もそれぞれが違っているのと同じで、概念の形も異なる。
眠りについている少女をそのままに……――。
僕は周囲の魔物たちに警戒しながら見守った。
(ここは? まんじゅう屋か……)
ふと、後ろを見上げると、現実世界の札幌駅にある馴染みの菓子屋が目に止まる。
(概念が作り上げた世界だとわかっていても……)
ガラスの割れたショーウインドウの先には、自動でまんじゅうを焼く大きな機械がある。生地を流し込み、白あんを置くと、回転しながら小さな円形の菓子を焼き上げていく工程が見られるものだ。
『そこで何をしている……?』
カグラの様子を見ていたナッツが、僕のほうを見上げた。
「ちょっとね」
言って、僕は売り場から厨房へと身を乗り出した。
止まったままの機械の側に、まんじゅう屋の名前の書かれた包装紙がある。
……でも、本物のお店のロゴとは何か違って見える。
パクリ……。
焼かれたまま、調理台に置き去りにされたまんじゅうの一つを口に運ぶ。
「まじゅい(不味い)ね、これ……」
『お前には警戒心というものはないのか?』
呆れた声で言う白い猫の視線が背中に突き刺さるのがわかった。
……やっぱり、本物とは全く別物だ。
お店も。厨房も。菓子も。全てが現実世界にあるものを象っていても、概念だけを模したに過ぎず、本物ではない。
『……まんじゅうではなかったのか?』
「うん。味噌ラーメンの味がした……」
見た目はまんじゅうそのものでも、中身は全くの別物である。概念と理の間に結びつくものがないためだ。
……おそらく、二軒隣のラーメン屋の持つ理がまんじゅうの中に入ったのだろう。
「……ここは、どこ」
後を追いかけてきた赤い霧が、カグラの中を満たしていくにつれて、彼女の意識が戻ってきたようだ。
『目が覚めたか……?』
「わっ、猫がしゃべった!?」
『それ、さっきも同じこと言っていたぞ』
白い猫に動揺していた彼女は、意識を取り戻して周りをきょろきょろと見渡した。
「目が覚めた?」
聞くと……――彼女は、がばっと起き上がった。
「私、どれくらい寝てた?」
「数十分ほどかな」
そう言うと、力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
……どうしたというのだろう。
「驚いた……よね。私、ダンジョンの中だと死なないの……」
膝を抱えながらうつむく少女。その脇腹と背中に空いた魔物に噛まれた傷口が、徐々にもとに戻っていく。赤い霧は、彼女が放出した魔力なのかもしれない それがもとに戻るにつれて、損傷した肉体は再生されていった。
「……不死者の冤罪の能力だね」
僕がそう聞くと、彼女は無言でこくりと頷いた。
「私が致命傷を負ったということは、もうそろそろあいつらが来るわ」
身体を抱くように、少女は怯えていた。
……あいつらとは、誰のことだろう。
僕の疑問に答えたのは、ナッツだった。
『亡霊だな』
「そう……――だから、逃げないと」
まだ回復していないのか、起き上がろうとしたカグラは力が抜けて膝をつく。
「朝ごはん、食べてないんだよね?」
「……」
一瞬、何のことを言われているのかわからずに、カグラは僕の言葉の意図を探しているように思えた。
「まずは、体力をつけよう」
「でも……――」
躊躇する彼女に、僕はそっと肩を貸した。
「あ、でも、この世界のまんじゅうはまずいから食べないほうがいいよ」
「……食べないわ、誰がダンジョンに転がってる食べ物を食べようとするの?」
「ごめん、さっき僕食べた」
「……」
何も言わず、カグラは僕と一緒に歩き始めた。
周辺の魔物たちは、ナッツが撃退していたせいもあって、襲ってくるものはいない。重い足を引きずりながら、カグラは僕たちに言った。
「私と一緒にいると、またあいつらに狙われるわ。それでもいいの?」
……正直、狙われたくはないが――。
「このまま、ここにキミを置いておけないからね」
……牢獄迷宮の攻略法もわからないし――。
「そう……――」
うつむいたまま、カグラは続けた。
「でも、私は死なない……だから、何かあったら、君たちだけ逃げて……これは私の問題だから――」
『そうとも限らないだろう』
「どうして……そんなことをーー」
『教えろ。亡霊に狙われている本当の理由を――』
……彼女は何かを隠している。知られたくないもの……誰にでも、隠したいものはあって、みんな生きている。
それでも――白い猫の気迫に押され、カグラはぽつりと……話を始めた。
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