210.友誼と悔恨
鶫は朝方にウルリクムミへ挑んだあと、全身の芯まで疲れが広がっているのを感じて、そのまま家に帰って倒れ込むように眠った。
シャワーを浴びる気力すらなく、ベッドに身を投げた瞬間、意識は泥の底へ沈んでいった。
次に目を覚ましたのは、一月一日の午後を少し過ぎた頃だった。窓の外はすっかり日が高くなっており、完全に寝坊してしまったようだ。
部屋を見渡してみるが、何の気配もない。どうやらベルはまだ帰っていないらしい。
――あの封じられた小瓶の中で、一体何が起きているのだろうか。
鶫はふとそんな事を思った。
心配しても仕方がないと分かっていても、不安は消えない。鶫は、ベルが無事に戻ってくることを祈るしかなかった。
だが、胸の奥にはもう一つ別の不安もあった。
鶫はこれからも塔の攻略を続けるつもりだが、ベルはどちらかと言えば反対の立場に見えた。
契約者としてこんなことを思うのは筋違いだと分かっていても、ヘルメスがうまく説得してくれれば――そんな淡い期待が頭をよぎる。ベルと喧嘩するような真似は、できれば避けたい。
そうして寝起きのぼんやりとした頭で、ポケットに入れっぱなしだった携帯を取り出す。
「……うわ、ひび割れてる」
画面は蜘蛛の巣のように割れ、黒い液晶が滲んでいた。昨日の砂嵐や吹き飛ばされた影響で負荷がかかったのだろう。
緊急連絡は政府端末から来るので問題はないが、個人携帯が使えないのは地味に困る。とはいえ、修理に行く時間など取れそうにない。
鶫が頭を抱えながら一階へ降りると、リビングに人の気配があった。
ハッとして、急いで扉を開ける。
「――誰だ!!……なんだ、行貴か。ビックリさせるなよ」
「なんだとは失礼だなぁ。お腹空いてるだろうから、お昼ご飯を持ってきてあげたのに」
大きな袋を抱えた行貴が、いつもの調子で立っていた。
鶫は安堵の息を吐き、向かいの席に腰を下ろす。
不法侵入については、この際目を瞑ることにした。鍵のことを聞いたところで、どうせまともな答えは返ってこない。
「助かるよ、ありがとう」
「どういたしまして」
袋の中には、おにぎり、サンドイッチ、ゼリー、ペットボトル飲料――簡単に食べられるものがぎっしり詰まっていた。
正直、食欲はほとんどなかったが、食べなければ体がもたない。鶫はおにぎりとサンドイッチを一つずつ口に運んだ。
だが、やはり精神的な疲労が大きいのか、朝昼兼用の食事だというのに二つずつしか入らなかった。
いつもなら五倍は食べられるのに。思っている以上にメンタルが削れているのかもしれない。
鶫は気鬱を押し出すように、静かに息を吐いた。
食事を終え、暇そうに携帯を弄っている行貴に声をかける。
「頼みたいことがあるんだけどいいか? 俺がシミュレーションで戦ってる間に、代わりに携帯の修理に行ってほしいんだ。昨日ぶつけたのか、画面が割れて使えなくてさ。流石に携帯がないと困るだろうから」
「ん? それくらいならいいけど……個人情報の塊を僕に任せちゃってもいいわけ?」
「……それこそ今更だろ。こんな時に変ないたずらするとは思ってないし、そこは信頼して任せるよ」
この期に及んで、行貴が悪戯を仕掛けるとは思っていない。
修理が無理なら買い替えになるかもしれないが、バックアップはクラウドにあるはずだ。少なくとも連絡先が消える心配はない。
行貴はひび割れた画面を眺め、軽く眉を上げてからポケットにしまった。
「じゃあ後で修理に出しとくね。鶫ちゃんはこれからシミュレーターでしょ? 塔に挑むときは政府端末で呼んでくれれば迎えに行くから。頑張ってね」
「ああ、分かった。――第三階層は雷獣……だったか? 相性は悪くないはずだから、そんなに時間はかからないと思う。準備ができたら連絡するよ」
雷獣――落雷とともに現れる妖怪だ。
過去の例では、雷を落とす瞬間にだけ具現化するタイプだったはずだ。転移が使える鶫なら、背後を取るのも難しくない。
――今のところ、攻略はかなりいいペースで進んでいる。
だが油断は禁物だ。時間経過が必要なギミック持ちや、相性の悪い魔獣が出れば、嫌でも時間を食う。
その前に、どれだけ時間を蓄えられるかが鍵になる。
「今から出るの?」
「いや、シャワー浴びて着替えてから――」
「その格好のままで?」
そう言われて自分の体を見下ろす。
……違和感がなかったせいで気づかなかったが、葉隠桜の姿のままだった。
別に鶫としては、自分の体なので目を瞑って体を洗う程度は全然恥ずかしくはないのだが、そう他人に指摘されると妙な罪悪感のようなものを覚える。
――とはいえ、男の姿に戻るのは得策ではない。
ヘルメスが言ったように、魂が馴染むまでは男の姿に戻ると頭痛や吐き気が襲ってくるはずだ。
シャワーの間くらいなら無理をすれば耐えられるかもしれないが、そんなことで体力を削るのはあまりにも愚かだ。
健康管理や衛生的に考えても体を洗わないのは論外なので、やはりこの姿のままシャワーを浴びるしか方法はないだろう。
渋い顔で鶫が肯定すると、行貴はため息をつき、赤い小瓶を取り出した。
「これあげる。一滴だけ水に混ぜて飲むと、十分間だけ変身解除時の不調を感じなくなるから」
差し出された小瓶を受け取り、天井の光に透かしてみる。
中の液体は赤黒く、どろりとした質感で、見るからに怪しい。
「……ヤバい薬か?」
鶫が真剣に問うと、行貴は不満そうに口を尖らせた。
「別に危険なモノじゃないよ。陰陽のバランスをちょっと整える効果があるだけ。でも乱用はしないでね。使いすぎはあんまりお勧めできないから」
鶫としては、それはやっぱりヤバい薬なんじゃないか?と思ったが、疑いすぎても切りがないのでありがたく受け取ることにした。
液体は言われた通り水に混ぜたが、何となく甘い風味がした。だが、何が材料なのかは怖くて聞けなかった。
――その後、鶫は無事にシャワーを浴び、着替えて魔獣対策室へ向かった。
転移で政府庁舎に着いた瞬間、端末が震える。
画面を見て、鶫は足を止めた。
――遠野からだ。
『携帯が繋がらないようなので、こちらから連絡します。塔の攻略の件、八咫烏から聞きました。私に何か協力できることがあれば、なんでも言って下さい。
遠野すみれ』
メッセージには丁寧な言葉でそう書かれていた。
……本来ならこちらから連絡すべきだったのだろう。だが携帯は壊れ、行貴から「どこまで情報が開示されているか分からない以上、他の魔法少女に連絡を取るのはオススメしない」と釘を刺されていたこともあり、連絡を控えていたのだ。
だが八咫烏から話を聞いたということは、遠野には鶫と同じレベルの情報が開示されているということだ。
鶫は安堵し、シフト調整などをお願いする返事を送った。
事情を知っているなら、葉隠桜として通常業務ができなくなることも理解してくれるはずだ。
「――よろしくお願いします、と。さて、今度こそ対策室に行かないと」
鶫は建物の扉に手をかけた。
◆ ◆ ◆
鶫からの返信を見た遠野は、痛むような表情で視線を落とした。
「シフトの調整? そんなの頼まれなくてもやるのに……。でも、まさかこんなことになるなんて」
――遠野は、月読と裏取引をしていた。
目的は、天照の器の選定から外れるためだった。
神祇省が秘密裏に進めていた遠野すみれを天照の器にする計画は、天吏行貴が詳細を暴露したことで実質不可能となった。
この時点で、遠野の目的はほぼ達成されたと言える。
そして塔の儀式が無事に成功すれば、遠野という器は不要になる。そうなれば、名実ともに自由の身だ。
――それなのに、心は少しも晴れなかった。
遠野が月読の計画の詳細を知ったのは、赤口町跡地に塔が建った後だった。
講堂での説明を終えた八咫烏は、遠野の待つ部屋に戻り淡々と説明を始めた。
怪訝に思いながら話を聞き始めた遠野は、八咫烏の説明に衝撃を受けた。
最初は、天照の器として生きなくていいという安堵。
次に、塔を建てるために朔良紅音の娘を犠牲にしたという恐怖。
そして――全ての責任を鶫に押し付けてしまったという、耐え難い罪悪感。
死にたくないと思っていた。
だが、それは他人を犠牲にしても構わないという意味ではない。
八咫烏は、遠野が器候補だったことを鶫には話していないと言った。
それは気遣いというより、儀式が成功すれば消える事実だからだろう。話す必要がないと判断しただけだ。
八咫烏の話を聞き終えた遠野は、本当の意味で月読が言っていた言葉を思い出していた。
――計画を聞いてしまえば、あの子と友達ではいられなくなる。
まさにその通りだった。
こんな澱みを押し付けるような行為、知っていて友達に押し付けるなんてできるはずがない。
これから鶫は、三月七日のタイムリミットまで魔獣を倒し続けるだろう。
血の繋がらない姉を救うために、ボロボロになっても戦い続けるはずだ。
その姿が、容易に想像できてしまう。
――黙っていれば、自分が計画に加担していたことは鶫には知られない。
そんな卑怯な考えが、心の中に浮かんだ。
最低だと思いながらも、話したところで何の意味もないことにも気づいてしまった。
七瀬千鳥を犠牲に塔が建ってしまった以上、今さら謝っても自己満足にしかならない。
それに、攻略で忙しい鶫を動揺させるのはできれば避けたい。どうしても話したいなら、全てが終わった後にすべきだろう。
つまり遠野は、この抱えきれない罪悪感を受け入れるしかないのだ。
「……それでも、まだできることはあるわ」
遠野には権力がある。
葉隠桜が動きやすいように根回しをするのは、自分が一番適任だ。罪滅ぼしには程遠いが、それでも何もしないよりはいい。
そう決意したとき、携帯が鳴った。
「……知らない番号ね」
普段なら出ない番号だったが、そのときはなぜか、導かれるように通話ボタンを押していた。
「はい、遠野です。――え?」
遠野はまだ知らなかった。
この一本の電話が――運命を変えることになるなんて。




