209.未明の幕開け
扉から出ると、行貴がゆっくりと手を叩きながら鶫を出迎えた。
夜の薄暗い外通路に拍手の音が響き、張り詰めていた鶫の神経がようやく現実へ引き戻される。
「おめでとう。まずは第一階層クリアだね」
「……これって、続けて第二階層には挑めないのか?」
まだ胸の鼓動が速いまま、鶫は息を整えながら問いかけた。
行貴はその様子を見つめ、静かに首を横に振る。
「それは許可できないかな。少なくとも、次の魔獣のシミュレーション戦闘をしない限りは扉を開けるつもりはない。それに、もう夜も遅いしね。あと六十五階層も残ってるんだから、きちんと睡眠もとらないと駄目だよ」
行貴の言う通り、先はまだ果てしなく長い。
焦りは禁物だと分かっているが、それでも胸の奥では不安が渦を巻き、何かをしなければという衝動が消えない。
――このままではどうにも眠れそうにない。鶫はそう感じていた。
「……なら、一度政府に行ってシミュレーションを試してみてもいいか? その後は、疲れてるようだったら少し休むよ」
行貴は口元に手を当て、少し考えるように視線を落とすと、やがて静かに頷いた。
「うーん、まあそれならいいかな」
その言葉に安堵したのも束の間、鶫の脳裏にふと疑問がよぎった。
――行貴は、自分との関係を政府になんて説明しているのだろうか。
その疑問を思わず口にすると、行貴は肩をすくめて軽く笑った。
「政府に対しては、僕は君の案内人としか言ってないよ。だから君との関係は何も話してない。でも探られるのも面倒だし、無難にお友達ってことにしておく?」
「まあ、それでいいんじゃないかな。詳しい説明を求められたら、いい感じに濁しておくことにしよう」
行貴と葉隠桜の関係を正しく語るには、七瀬鶫の情報を開示しなければならない。
それでなくとも、天吏行貴という人間の来歴から葉隠桜に似た人物――七瀬鶫の存在が浮かび上がる可能性はある。
だが、上層部にはすでに正体を知られている以上、今さら隠す意味も薄い。
それに、葉隠桜と天吏行貴の正体など、塔の攻略には何も関係がない。
この状況でそんなことを調べるために人員を割く余裕は政府にはないだろう。
六十六日のタイムリミットの間、騒ぎにならなければそれでいい。その後のことは、きっとどうとでもなる。
たとえ世界中から誹りを受けたとしても、千鳥が助かるならそれで構わない――鶫はそう思っていた。
「じゃあ、とりあえず政府に戻ろうか。シミュレータールーム使うんでしょ? 許可は僕が貰っておくからさ」
「いいのか?」
「うん。僕もえっと、なんだっけ、――ああ、魔獣対策室の人と話すことがあるからね。ついでに顔を出しておこうと思って」
そう言って行貴は穏やかに微笑んだ。
……なにか裏がありそうな笑みだったが、きっと変なことは仕出かさないだろう。
そうして鶫はシミュレーターの使用許可を行貴に任せ、先にシミュレータールームへと向かうことにした。行くならば、早い方がいい。
転移を開始すると、輪郭が淡く揺らぎ、鶫は空間へ溶けるように消えていった。
◆ ◆ ◆
因幡が率いる魔獣対策室は、天吏が出した声明によって完全に混乱していた。
――塔の発生から数時間。
政府としての正式な対応はまだまとまっていなかったが、それでも転移管理部や対策室は、現場として即応が求められる。
因幡は講堂から抜け出し、リモートで政府会議に参加しながら、同時に部署内の指揮を執っていた。
画面越しの会議は騒然としており、背後の対策室ではキーボードの音と通話の呼び出しが絶えない。空気は張り詰め、誰もが焦りを隠せていなかった。
中でも最優先とされたのは、過去の履歴――朔良紅音が戦った魔獣の洗い出しだ。
他にも魔法少女のシフトの見直し、シミュレーションへの協力体制の構築など、やるべきことは山ほどある。
だが最も重要なのは、葉隠桜が戦うであろう魔獣の情報を一刻も早く揃えることだった。
この作業が遅れれば、その分だけ塔に挑む時間が削られていく。
責任の重さが因幡の肩にのしかかっていた。
正月休みを取っていた職員たちには緊急招集をかけ、他部署にも応援を要請した。
出勤していた者たちは総動員され、資料を引っ張り出し、過去の記録を洗い直していく。
塔が建ってからまだ数時間しか経っていないというのに、室内はすでに戦場のような慌ただしさだった。
そんな中――まだ人員も揃いきっていない部屋に、唐突に声が響いた。
「すみませーん、ちょっと用事があるんだけどいいですかー?」
あまりにも気の抜けた声に、室内の空気が一瞬止まる。
魔獣対策室は、日本全国に現れる魔獣を観測し、魔法少女を派遣するための重要部署だ。
それ故に、ここに入るまでには厳格なセキュリティが敷かれており、扉を開けるだけでも人物登録が必要なほど警備が徹底していた。
――だというのに、その人物は一切の痕跡を残さず、まるで散歩の途中のような気軽さで部屋に入ってきたのだ。
どこか聞き覚えのある声音に、因幡の背筋がぞわりと立つ。
月読の代理人――天吏。
彼の正体について、政府の神々は沈黙を保っている。知っていて黙っているのか、それとも何も知らないのか、それすらも因幡たちには判断がつかない。
急遽調べた戸籍情報では、天吏行貴という少年は18歳の人間として登録されていた。
だが、それが本当かどうかは誰にも分からない。
姿を借りているだけなのか、二十年近く潜伏していた逃れモノの神なのか、あるいは月読と契約した人間なのか――何一つ答えは出ないままだった。
そんな正体不明の存在が、何の前触れもなく魔獣対策室に現れた。
因幡は動揺を悟られまいと、静かに立ち上がった。
「……何か御用でしょうか、天吏さん」
天吏はニコリと人好きのする笑みを浮かべ、軽い調子で言った。
「君がここの責任者? 急ぎでシミュレーターを使いたいんだけどいいかな?」
予想外の言葉に、因幡は思わず目を丸くする。
「シミュレーターですか? ……貴方が使うのですか?」
因幡が困惑を隠せずに問い返すと、天吏はケラケラと笑った。
「いやだなぁ、僕が使うわけないじゃん。君たちの大好きな葉隠桜が使うんだよ」
「は、葉隠さんが?」
「うん。先にシミュレータールームに向かってもらったから、ここには来ないけどね」
そう言いながら、天吏は因幡のそばのパソコンへ視線を滑らせた。
「早速魔獣の洗い出しをしてるんだ。感心だね。この中にウルリクムミ――ヒッタイト神話の岩の巨人の情報ってある?次に戦う魔獣って、そいつだから」
「え、――えっ?」
「鈍いなあ。案内人の特権で、次に戦う魔獣の正体は話していいことになってるんだよ。次回からはタブレットに連動させるからそっちを確認してね。いちいち伝えに来るのも面倒だし」
天吏は空いている椅子に腰を下ろし、やる気のなさそうな声で続けた。
「それで、シミュレーターは使って大丈夫なの? あっちではもうスタンバイしてると思うんだけど」
「す、すみません。確認します」
呆然としていた因幡は、ハッとしてパソコンに手を伸ばした。
シミュレーターの操作は、本来であれば専用の端末が必要だが、緊急事態のため一時的に魔獣対策室で遠隔操作できるようになっている。だがそれを設定したのは、つい数分前の話だ。
それなのに、この少年は迷いなくこの部屋に来た。
――やはりこの少年は、人間ではないのだろう。
因幡はそう確信した。
だが天吏の言うように、次に出る魔獣を知ることができるのは僥倖だった。
事前にシミュレーターで戦えれば、敗北の確率は大幅に下がる。
因幡はシミュレータールーム前のカメラを起動し、そこに葉隠桜がいることを確認した。急いでマイクを繋ぎ、声をかける。
「――葉隠さん、聞こえますか? 魔獣対策室の因幡です。これからシミュレーターを起動しますが、準備は大丈夫ですか?」
すると葉隠がちらりとカメラの方を向き、大きく頷いた。
「かしこまりました。再現する魔獣は巨人ウルリクムミ――B級ですが、場合によってはA級クラスまで成長するタイプの魔獣です」
ヒッタイト神話に登場する巨人、ウルリクムミ。
過去に二度出現が確認されている魔獣だ。
魔獣としてのウルリクムミは、地中や海中に隠れ潜みながら一秒間に4cmずつ成長していく特性を持っている。
魔法少女に存在を認識されるまで成長は止まらず、一分で2.4m、一時間で144mまでに達する。
その表皮は岩のように硬く、並の攻撃では傷一つつかない。時間経過で大きくなるほど倒すのが困難になっていく厄介な魔獣だ。
定義されている弱点は足だが、いかに早く石に擬態したウルリクムミを見つけ出すかが、攻略のカギとなるだろう。
「ウルリクムミの特性は以上となります。――どうか、ご武運を」
因幡はそう告げ、シミュレータールームの扉を遠隔で開いた。
葉隠が部屋に入るのを確認し、静かに起動ボタンを押す。
因幡はシミュレーターの画面を壁掛けになっているモニターに連動させ、ちらりと天吏のことを盗み見た。
天吏は頬杖をつき、無表情のようでいて、どこか優しい目でモニターを見つめていた。
他の対策室のメンバーは、恐る恐る天吏の様子を伺いながら、居心地が悪そうに仕事をこなしている。
はっきり言って、政府のお偉方が視察に来た時の空気のほうがまだマシだ。
天吏が魔獣対策室に来ていることは連絡しているので、講堂にいる者たちから天吏への質問が次々とチャットで送られてくるが、因幡としてはあまり機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。
天吏は塔の案内人――つまりは協力者のはずだ。
だが、その態度からは熱意が感じられず、何を考えているのか全く読めない。
八咫烏の言葉がなければ、味方だと思うことすら難しかっただろう。
この植え付けられたような苦手意識は消えないだろうと、因幡は思っていた。
だが、モニターに映る葉隠桜を見つめる天吏の目が――あまりにも穏やかだったから。だから因幡は、この得体のしれない少年の存在を少しだけ受け入れることにした。
因幡は肩の力を抜き、静かに問いかけた。
「あのウルリクムミが、第一階層の魔獣なのですか?」
「いや? 第一階層はさっきクリアしたよ。ごめんね、言い忘れてた。あとでタブレットに反映させとくね」
さらりとそう告げた天吏に、因幡は内心で静かに青筋を立てた。これがもし部下だったなら、そんな重要な報告はきちんとしろと怒鳴り散らしていただろう。
「……そ、そうですか。んんっ、もし出てくる魔獣に規則性などがあるなら、今後のためにも教えていただきたいのですが」
「最初と最後以外はランダムだから規則性はないよ。権限を持つ僕でさえ、直前にならないと情報が開示されない徹底ぶりだ。残念だけど、地道に朔良紅音の戦った魔獣の情報を集めるしかないね」
そうして、天吏はぽつりと呟くように続けた。
「分かってると思うけど、君たちにやってもらいたいのは情報の洗い出しだ。今回のケースなら、ウルリクムミの潜伏場所の予測、有効な探索方法、表皮を傷つけるために必要な力、弱点の足のどこを狙うのが確実か。そういうのを優先的に調べてほしい。――あの子が短い制限時間内に塔を攻略できるかは、その情報の精度に掛かっていると言ってもいいからさ」
因幡は深く頷いた。
――天吏の言う通りだ。
たとえ次に出る魔獣が直前に分かったとしても、事前に対策を調べておかなければ話にならない。塔の攻略をバックアップするためには、当然の備えだろう。
「ご提言ありがとうございます。――質問なのですが、貴方と葉隠さんは六十六日以内の攻略を目指しているのでしょうか」
「そうなるかな。協力してくれると僕としても助かるよ。まあ、君たちにとっては多少の猶予がある百日以内の方が都合がいいんだろうけどね」
そう言って、天吏は小さな笑みを浮かべた。
因幡は静かに頷き、部屋を見渡した。
「政府――いえ、魔獣対策室は葉隠さんが望むなら全力を尽くしましょう。彼女には、返しきれない大きな借りがありますから。多少の激務は、皆も納得してくれるはずです」
そう言って、部屋の中を見渡す。因幡たちの会話に聞き耳を立てていた人員たちも、目が合うと力強く頷き、振り向けない者は軽くサムズアップして承諾の意思を示していた。
とはいえ、暫くの間は休みも取れないくらい忙しくなると思うが、誰も文句は言わなかった。
天吏は感心したように目を見張り、「頼もしいね。あの子も喜ぶと思うよ」と微笑んだ。
その表情を見て、因幡はふと気が付いた。
――この人はこの人なりに、葉隠桜の事を大切に思っているのだと。
「葉隠さんと、仲がよろしいんですね」
「……まあね。僕はあの子が魔法少女になる前からの友達だから」
天吏は平然とそう答えたが、その姿が見た目の年相応の照れ隠しのようにも見えて、因幡はほんの少しだけ微笑ましさを感じた。
たとえこの少年の中身が人ならざるものだとしても、友と呼んだ葉隠桜のことは裏切らないだろう。根拠はなかったが、因幡はそんな風に思ったのだ。
シミュレーターを映すモニター画面の向こうでは、50mほどの大きさになった巨人を煌めく糸が両断していた。
どうやら、無事にウルリクムミを見つけ出すことができたようだ。
安堵の息をつきながら、シミュレーションの終了処理をする。
――塔の攻略は依然として見通しが立たず、分からないことばかりだ。まだ先は長いが、それでも確かに前へ進んでいる――そう思えた。
そうしている内に天吏は忽然と部屋から姿を消し、シミュレータールームから葉隠桜の姿も消えていた。
そして夜が明ける前に、第二階層クリアの一報がもたらされたのだ。
行貴の最後の台詞で、対策室の職員ABCは脳を破壊されてる。
お、俺たちよりも……ずっと前から葉隠さんと知り合いだった、だと……!?




