2-3 突然の危機
唸り声に目を向ければ、泉の奥にある繁みからは、獅子の姿をした動物が飛び出してくる。
体つきは似ているが、その顔の回りを覆っている鬣の一本一本は蛇だ。
それらが何十という瞳を光らせながら、アレッシェラたちに向かって襲いかかってくるではないか。
「魔獣――ヘスーオン」
咄嗟に判断した相手に、アレッシェラは髪に巻き付けた宝石の連珠へと手を伸ばす。薄い金髪の一部を巻きながら、腰の下まで繋がる珠を手に取るよりも先に、後ろにいたエディットが腕をがしっと掴んだ。
「奥方様!?」
驚いて、咄嗟に振り返ってしまう。
しかし、その向こうで腕を掴んだエディットの顔は必死だ。
「急いで、逃げてください!」
「いや、私は――」
「アレシナ様は、レナールと結婚してくださる方。どうしてヘスーオンがこんなところにいるのかはわかりませんが、ここでアレシナ様を傷つけさせるわけにはいきません!」
今までの穏やかな雰囲気ではない。息子を大切にしてくれる者を、母として、必ずや守るという覚悟に満ちた表情だ。
それに一瞬、アレッシェラの視線がエディットへと縫い留められた。
だが、その間にもヘスーオンは、地を蹴って、こちらへと躍りかかってくる。
「危ない!」
後ろにいるルイサの悲鳴とともに、ヘスーオンの牙が二人へと迫った。
(しまった!)
腕を取られているので、髪飾りを引き抜くことができない。
(せめて、奥方様には怪我がないように――)
走っても、この近距離では逃げることはできないだろう。ヘスーオンと、アレッシェラの腕を引っ張っているエディットの間に体を入れて、覆い守ろうとする。急いだので向きを変える際に、アレッシェラの左手が茂みに引っかかるが、かまわずにかばった時だった。
「――――!」
なにかの呪文の詠唱が聞こえた。
同時に、キンとした音が三人を包む。襲ってきたヘスーオンの体が、その音に弾かれてバシンと草の上に投げ出されていく。
(え! なんだこれは!?)
一瞬、背筋を襲った感覚に、慌てて周囲を見回す。すると今歩いてきた方角から声がするではないか。
「逃げてください! 今のうちに!」
「レナール!」
ハッとしたエディットの声に、その方角を見れば、名前の主であるレナールが、片手を広げて薄い魔法の膜を広げている。
起き上がった魔獣の目が、レナールを映した。そして、再度土を蹴り、猛然と襲いかかろうとしている。
「逃げて、レナール!」
咄嗟にエディットが手を伸ばす。その瞬間、離された手で、アレッシェラは髪に巻いていた連珠を引き抜いた。
周囲には気づかれない程度に神力をこめ、強くヘスーオンへ打ちつける。
「ギャウッ」
一撃で、ヘスーオンの姿は塵と化した。
「大丈夫か?」
突然消えた魔獣の姿に、レナールの目は驚いているようだ。
「今のは……」
「ああ、この連珠には――神殿の加護が宿っている。それが魔獣を退けたのだろう」
正しくは、大聖女の加護だが、どこに操っていた者がいるのかわからない今の状況では、そこまで言う必要はないだろう。
「母と俺を助けてくださって、ありがとうございます」
あの時と同じ少し高めの澄んだ声だ。その声で礼をして、顔を上げた瞬間、レナールの瞳がアレッシェラを見つめた。夕方の空を思わせるような紫の瞳。青みがかった深い色に澄んでいて、それが黒が混じった銀髪の下で、とても優しく輝いている。年の頃は二十歳。あの時、アレッシェラを助けてくれた相手に間違いがない。
相手もアレッシェラに気がついたのだろう。
「君は――ひょっとして、あの蝙蝠の時の……?」
その瞬間、レナールの視線が、アレッシェラの瞳を捉えた。
再度、不思議な感覚がアレッシェラの中を走り抜ける。
なんだろう、名状しがたい感覚だ。懐かしいような、泣きたくなるほど、なにかがこみ上げてくるような――。名前のつけようもないその感情に、一瞬レナールの姿に瞳を奪われていると、相手もなにかを感じたのか、同じようにアレッシェラを見つめたまま、言葉を途切れさせている。
ふとレナールの口が動いた。
「君……やはり、もっと昔に、どこかで出会ったことがある……?」
その言葉にレナールも同じ感覚に襲われていたのだとわかる。だが、次の瞬間、自分が言ったことに気がついて、ハッとした顔をすると、一度頭を横に振った。
「いや、そんなはずはないな。俺はこの間までこの国から出たことがなかったんだし、第一、君みたいな印象的な人に出会っていたら忘れるはずがない」
ようやく静かになったあたりの様子に、アレッシェラの後ろにいたエディットが口を開いた。
「レナール! この子ったら、やっと帰ってきて……。アレシナ様はずっとお待ちくださっていたのですよ」
「アレシナ……」
ぼそりとレナールが名前を繰り返した。そして、母に向き直る。
「母上遅くなり申し訳ありませんでした。ですが、前にも話したとおり、俺は結婚する気はないのです」
君にも、とアレッシェラのほうを向く。
「ここまで来てくれたのに悪かったね。でも、今言ったとおり、俺は誰とも結婚する気はないから……。もしあの時のことを恩に感じて、父からの婚約の申し込みを受けてくれたのなら、気にしないで」
そして、再度アレッシェラに向けた視線で、エディットを庇った時繁みに引っかかった手に、爪ほどの細かな葉が、いくつもくっついているのに気がついたようだ。
「怪我をしているの?」
「いや――引っかかった時についただけだ」
「そう……悪かったね。すぐに水を用意させるから。もしも服も汚れていたら言って」
そう言いながらも、レナールの顔はホッとしたようになっている。その些細な表情の変化に気がついた。
「先ほどの魔力は――」
「ああ、あの程度のしか使えないんだ。初級の防御魔法だけれど……」
(えっ!?)
思わず目を見開いた。
(いや――たしかに今のもこの間のも初級魔法だったが……それにしては、なにかがおかしいような――)
思わず見つめたが、レナールは、これ以上はアレッシェラとは目を合わせずに、背中を向けようとする。
「これ、レナール。お待ちなさい!」
慌てて側のエデッィトが止めようとしている。しかし、レナールはそのまま歩き始めていく。ただ、一瞬アレッシェラのほうを振り返った。
「母上、ご令嬢を頼みます。俺は、ヘスーオンがどこから入り込んできたのかを調べてきますので」
そう言うと、そのまま歩いていく。その後ろで、アレッシェラは先ほど感じたことを、ただジッと思い返していた。
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