4-4 闇の中に立つ敵
レナールが呟いた言葉で、アレッシェラはまだ本名さえ話していなかったことに気がついた。
「あなたとは、まだまだ話さなければならないことがいっぱいだな」
そう言う間にも、闇が一際暗いほうから音がする。
ドンドンという音は、おそらく扉からだろう。
「レナール様」
「テディス公爵夫人?」
声で誰かがわかったらしい。
慌てて目をやると、そちらに行くべきかで悩んでいる。
「この扉を開けてくださいませ。お茶をお持ちしましたの」
華やかに響いた声に、戸惑った顔をしているレナールの腕を押さえる。
「開けたらダメだ」
止めたが、すぐに鍵をガチャガチャと鳴らす音が響いた。おそらく合い鍵の束だろう。持っていた鍵で、穴にかちりと音を響かせると、真っ暗な室内にゆっくりと扉が開いていく。
廊下にも角に明かりは灯されているはずなのに、開けられた奥に見えた空間は漆黒の闇だ。光の一切がない闇の中で、なぜかテディス公爵夫人だけがお茶を持って、こちらへと歩いてくる。
「テディス公爵夫人……?」
明らかに異様な光景だ。
来るなと言ったのに、いつの間にか合い鍵まで用意していた公爵夫人の様子に、レナールが困惑した表情をしている。
二人の間に入るように、アレッシェラが立った。
「あら?」
その姿を見て、テディス公爵夫人が、少し首を傾げている。
「私が断られましたのは、先約がおありだったからなの?」
話している顔は、いつもと変わらないのに、明らかに気配がおかしい。
「とはいえ、親が認めた婚約者でも、まだご結婚はされていないのですから、アレシナ嬢はお部屋に戻るべきではないのかしら」
「テディス公爵夫人? 一体……」
にっと笑う夫人の様子は、明らかに不穏だ。だから、おかしな雰囲気に戸惑うレナールを守るように、アレッシェラがテディス公爵夫人を見つめた。
「ふん、やはりお前が犯人の化けた姿か」
「犯人?」
一体なんのことだというように、側からレナールがこちらを見つめている。
「レナール様、あなたの予言は、半分は本当だが、真相は仕組まれたものだ」
「えっ!」
今まで思いもしなかったのだろう。心の底から驚いた顔をしている。その前でアレッシェラはテディス公爵夫人と向かい合い続けた。
「目的は、レナール様の魂に封じられている巨大な力。聖にも魔にもなるそれを食べれば、魔族だったら魔皇にもなれる。だから、長年じわじわと命ごと吸っていたのだろう!?」
そう話せば、テディス公爵夫人が茶器を落とした。同時に素早く走り出す。
「なぜ気がついた?」
「下手な予言で、周囲の人間と縁を切らせたりするからだ! 命を吸い取る術は、その魂に縁の繋がる者がいれば、吸い取る術の対象が分散されて、食べ尽くすのに時間がかかる。だから、縁を切らせるためにした、そうだろう!」
テディス公爵夫人の手が届くのよりも先に、アレッシェラが金髪に巻いていた長い連珠を引き抜き、相手に叩きつける。
その瞬間、テディス公爵夫人の姿が裂けた。
そこに現れたのは、黒い髪の四十路をかなりすぎた姿だ。
長い髪を後ろで纏め、メイド服を纏いながら、陰惨な眼差しでこちらを見つめている。耳にあるほくろは、覚えのあるものだ。
「よく知っていましたね」
先ほどまでは消していた魔族の気配も、今はまったく隠す気がない。
空間に放たれる禍々しいまでの魔力に、闇がいっそう濃くなったような気がした。
「ニコル……?」
現れた、長年仕えていたメイドの姿に、レナールが呆然としている。
「どういうことだ、どうしてテディス公爵夫人がニコルに……」
「どうせ両方偽名だろう。本物の公爵夫人は、あちこちを豪遊しているから、初めてここに来たと言っても疑われないからな」
そのアレッシェラの言葉に、ニコルが肩を竦めている。
そして、さらにぐにゃりと体が歪んだ。そこに現れたのは、鋭い牙と長い爪を持った禍々しい姿だ。
顔や手の肌が異様に白く輝き、闇の中でもまるで光るかのようだ。
光源などないこの空間でも、まるでぬめりを帯びた蛭のように輝くのは、彼女が魔族だからか。メイドにしては不似合いな赤い唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「そうよ。まさか、今になってレナールと結婚してもいいという娘が現れるなんて。しかも、レナールの噂を知っていながらも、本人が婚約に前向きなんて思いもしなかったわ」
「だから、化けた体で、直接レナール様を食うことにしたのか」
「ええ、そう。前の大聖女に魔力を削られていたから、ニコルのふりをして、ずっと少しずつ吸っていたの。でも、やっと魔力が補充できたし、それならば、いっそ人間が魅力的だと思う姿で誘惑をして、全身の肌から命ごとすべて吸い尽くしてやろうかと思って。この姿では少し年上過ぎるから、昔見たあの女の姿を借りたのよ」
本当は、手っ取り早く頭から丸呑みにしてもいいのだけれど、骨は歯触りが硬いからあまり好みではないしねえと、グルメのようなことを言っている。
「それなのに、まさか化けた私をふって、別の娘が部屋に来ているだなんて。なんて憎たらしい」
「夜這いを自分の専売特許だとは思わないことだ」
「驚かないところを見ると、いろいろ気がついていたみたいね。どうしてわかったの?」
「簡単なことだ。命を吸い取っているのなら、昔から近くにいたはずだ。そして、私との婚約話が出て、すぐにテディス公爵夫人が現れ、彼女が博物館で子供をけしかけて投げた石には毒が塗られていた。加えて、私がヘスーオンに襲われた時に、庭に行くようにと勧めたのはニコル、そして博物館に行くことをレナール様が話していたのもニコルだ。それらを繋げて魔族が絡んでいることを考えれば、一番可能性が高いのがそれだったからだ!」
「あら」
これはしまったわという顔をしている。
「あとは、公爵夫人とニコルが、真実同一人物かどうかを見極めようと思っていたのだが」
アレッシェラの鋭い眼差しに、ニコルが禍々しい微笑みを浮かべる。
「どうやら魔物に対しての知識があるようね。小賢しい――」
美しい口元に、笑みで鋭い牙を際立たせる。
次の瞬間、細いナイフのように伸びた指で、アレッシェラに向かって走り寄ってきた。伸びた開いた手の中には、いくつもの蛭のようなものが生えている。蛭の吸盤のような口が動き、針のような指とあわせて、アレッシェラに襲いかかろうとする。
「危ない!」
咄嗟にレナールがアレッシェラを引き寄せて、体に抱え込む。
「――――!」
呪文が空間に弾け、それと同時にニコルとの間に、きんと空気の波動が起こった。
「こんな初級技! いくらあなたの力が大きくても、こんな初級技ならばかわせるのよ!」
そう叫ぶと、ナイフのように伸びた長い指に魔力を乗せて、レナールが使った敵を空気の波動で跳ね返す術を切り裂いてくる。
ざんと空間に別の音が響いた。
一筋、アレッシェラの髪が爪で落ちる。
ごくわずかな量だ。おそらく数本だろう。それでも、レナールの顔は真っ青になった。
「アレシナ!」
(私としたことが――つい守ろうと抱き寄せられた腕に気を取られて、反撃が遅れた)
こんなことは初めてだ。
レナールには、初めて会った時にも感じたが、なぜか側にいるだけで不思議な思いが湧いてくる。
懐かしいような――。抱き締められたら嬉しいような。
(やはり、夢のとおり、昔彼と会ったことがあるのか?)
それはわからない。だが、嬉しくて、心の中がこそばゆくなってくるのはわかる。
(ひょっとして、私は今世でもレナール様に恋をし始めているのか?)
レナールの腕に抱かれているのは、アレッシェラから手を組んだ時よりも幸せな気持ちだ。さらに側にいたくて――。もっとレナールについてよく知りたいと思ってしまう。家族に感じた優しい思いに、甘美さと高揚さを加えたような気分だ。側にいると嬉しくて幸せなのに、ひどく胸が高鳴って、レナールと触れ合っている場所にばかり意識がいってしまう。
甘酸っぱさが溢れてくるのに、相手はその一瞬に、さらに躍りかかってきた。
「魔物について詳しくても、所詮は小娘ね。戦う力など碌にない――」
そして、ほんの一飛びでレナールに近づくと、その首をぐいっと掴む。
「さあ、私にその眠っている力を命ごと差し出しなさい。そうすれば、その生意気な小娘は、あなたのあとで苦しまないように同じく食べてあげるから」
指の下で、蛭のようなものがいくつも口を開けている。長い指がぐっとレナールの喉を絞め、手のひらの蛭を近づけさせようとしているのがわかった。
「あなたと一緒になれるのなら、早死にしてもかまわないと言った娘ですもの。私のお腹の中で、未来永劫幸せに暮らせるのなら本望でしょう?」
「ぐっ……アレ……、ナ……逃げ……て」
必死で手を離し、側のアレッシェラを逃がそうと肩を押す。
「無理よ。この空間は私が支配しているの。どこにも逃げられないし、誰も助けには来られないわ」
この状況に陥っても、まだ自分よりもアレッシェラの命を心配している。その前で、蛭の口がレナールの首に襲いかかろうとしている。そして、近づいた魔物の唇も、レナールに重なろうとしているではない
か。おそらく唇からも命を吸い取るつもりなのだろう。
目の前の光景に、一瞬でアレッシェラの頭の中が冷えた。




