【2】秀吉の雪辱
地獄聚楽第にて 豊臣秀吉と明智光秀
「緒戦に敗れたのは俺だ。とは言っても、実際に戦ったわけじゃねえ。だからお前以外のやつには、さっぱり理解できねえだろうな」
「今の話、私以外にもしたことがあるか?」
「ねえよ。分かるやつなんか、いると思うのか」
「そうだな。私は前々からお前と警戒し合っていたから、今の話を聞いて納得したが、確かに他の者には理解し難いだろうな」
「そうだろう。しかし俺の中では間違いなく、人生最悪の敗戦なんだよ」
「分かった。では私が信長様を討ったところまでを緒戦とするならば、その後の、あの山崎での戦いまでを決戦とでも呼べば良いのかな」
「そうだな」
「緒戦は私の勝ちのようだが、決戦は完全にお前の勝ちだったな」
「さっきも言った通り、あれは俺の雪辱戦だったんだからな。絶対に勝たなきゃならなかった」
「お前は、不利な戦で本領発揮するタイプだからな。緒戦に勝ってしまったことが、そのまま決戦での私の敗因なのだろうな」
「信長様の死は、俺の背中にとてつもなく重くのしかかってきた。あれから毎日が悪夢のようだったよ。しかしその一方で、あの約十日間は、俺の人生で最も感覚が研ぎ澄まされてもいた。上手く言えねえが、体も心も氷みてえに冷たく重いのに、なぜかちょっと先の出来事が鮮明に予見できてしまう…そんな妙な感覚だったな」
「感覚的な部分は理解できないが、とにかく無双状態だったということだな。しかもそれを、自覚できてもいた」
「そうだ。だから、やることに一切の迷いは生じなかった。あの十日間だけは、俺は何がベストかなど考えなかった。俺がやることがベストだったんだ。信じるか信じないかはお前の勝手だがな」
「そんなことを信じるやつはいない。この私以外にはな。要はあの時、私が何をしても無駄だったんだな」
「そうだ。だがそれも、お前自身が招いたことなのだから仕方がねえだろう」
「そうだな。つまりここからの話は、私にとっては、あの忌まわしい記憶をなぞるだけということなのだな。
まあ良い。では今度は私から聞こうか。お前が信長様の死を知ったのはいつだ?」
「お前があれをやった日の、翌日の午後だった。まだ陽は落ちていなかったはずだ」
「早いな。どうやって知った?」
「お前に付けていた監視からの報告だ。正確に言うと、前日の夜、襲撃の直後、それに本能寺の焼失直後の、三回分の報告が送られて来た。三回目の報告が届いたのが、あれの翌日の午後だ。その時点で、信長様の死を確信した」
「私が毛利輝元に送った使者はどうなった?」
「捕らえてお前の書簡を奪い、すぐ殺した。お前が毛利に使者を出したのも分かっていたからな。備中に入った辺りに網を張っておいて、はい お疲れさんだ。
あの街道を整備したのも俺なんだ。京からの情報が一番早く届く方法も考えてあった。具体的には10kmくらいの間隔で使者をリレーさせた。お前が送った使者も、途中で一度交代していたが、一人100km超はハードだったみたいだぞ」
「なるほど。信長様を討ったことを伝えれば、毛利輝元は私に呼応してくれる。最低でも、お前の足止めくらいはすると思っていたが…。それもお前に読まれていたのか」
「そうだ。ついでに上杉景勝には、信長様が襲撃されたが逃げて無事だったという虚報を送らせた。万一、信長様の死に乗じて上洛し、お前と合流でもされたら厄介だったからな。
ただ後で分かったが、俺の虚報は無駄だった。上杉景勝は独自の情報網で信長様の死を掴んでいたんだ。だが景勝には、それに乗じて何かしようなんて機転は利かないし、度胸もなかったようだ。せいぜい柴田殿の撤退を邪魔したくらいか」
「そうだな。私も上杉には、もう少し期待していたのだが失望したよ。もし、上杉謙信が死んでいなかったなら…。なんて、考えても意味はないか。そもそも謙信が死んでいなければ、武田があそこまで早く弱体化していたかも分からないからな」
「上杉謙信と武田勝頼が、信長様の前に立ちはだかっていたら、お前は信長様を殺そうとは思わなかったか?」
「思わなかった」
「そうか。強敵が消えたことが、お前の謀叛の引鉄になった。皮肉な話だ」
「そうだな。私も甲州征伐前までは、本気で信長様をこの国の覇者にしたかったのにな。まあ、その話はもうやめておくか。
私の毛利への使者が、お前に捕らえられたのは知っていたが、毛利輝元が信長様の死を知ったのは、いつだったのだ?」
「俺との講和が成立した直後じゃないかな」
「お前と毛利の講和が成立したのはいつだ?」
「俺が情報を受け取った日の真夜中だ。じゃあ、毛利との講和の話をしようか。
毛利攻めを命じられた俺は、備中の高松城を包囲していたが、大雨のせいで身動きが取れなくなって、仕方なく城に水を溢れさせて嫌がらせをしていた。講和の交渉は、その少し前に毛利側から持ちかけられていた。ただ、提示してくる条件がせこいから、受け入れずに交渉を引き延ばしていた。そこに、毛利輝元が直々に、本隊を率いて高松城の救援に来た。あれもおそらく、交渉を進めるための駆け引きだったんだと思う」
「駆け引きか。では毛利輝元には、積極的に戦う気はなかったのか?」
「そうだ。毛利は、京を追われた足利義昭を保護するような形になってしまい、信長様と戦わざるを得なくなっただけだと俺は思っていた。
だから高松城へ信長様まで来ると知って、かなり動揺したと思う。あのままじゃ、織田家と毛利家の本隊同士が衝突することになるからな。つまり毛利は、駆け引きのつもりが、自分の首を締めてしまったんだ。そんなところへ、お前が本能寺であれを起こしたって報せが届いた」
「なるほど」
「毛利も数日後にはそれを知ることになるだろうが、そんなのは大した問題じゃない。何食わぬ顔で、信長様が京を発する前の今が、講和の最後のチャンスだがどうするって、軽く脅すだけで終わりだ。領地の割譲に高松城城主の清水宗治の切腹、さらにすべての兵を即座に備中から退くという条件で、あっさり講和成立だったよ」
「話を聞いていると すべてが繋がるが、実際にはそんな簡単なものでもなかっただろう?」
「やってることは簡単だったよ。想定の中に含まれていたからな」
「あらゆることを想定していたんだな」
「そうだ。だが、それでも俺はずっと、精神的には不安定だった。早く信長様に京から離れてもらいたかった。だがそこへ、信長様が討たれたって報せが届いたんだ。さすがに数時間は頭が真っ白になった。だが官兵衛が冷静だったおかげで、ギリギリ立ち直れたんだよ」
「そうか。そのまま真っ白のままでいてくれれば良かった」
「悪かったな」
「お前は信長様の死を伏せて毛利と講和した。しかしその直後、毛利も信長様の死を知っただろう。それでも、やつらは講和を反故にしなかったのか?」
「内輪で少し意見が割れてたみたいだが、輝元は決定を変える様子はなかった。むしろ、信長様が死んで俺も速やかに兵を退く確証ができたことに、安堵していたんじゃないのかな」
「では、私の使者が無事に着いていても、毛利輝元は動いてくれなかったのか」
「そうだろうな。毛利も上杉も、腰が引けていたんだよ。信長様と信忠様が、同時に家臣に討たれたんだぞ。ボサッとしてる場合じゃねえよな、普通」
「そういう者たちを、少しでも恃みにしていた私も愚かだった」
「俺も、しばらくは固まったがな。でも、あの報せがもたらした衝撃から立ち直ってすぐに、俺は雪辱を誓った」
「雪辱か」
「そう、雪辱だ。おかしな言い回しに聞こえるだろう。俺は信長様が大好きだった。そんな人が殺されたなら普通は、怒りとか悲しみとか、まず そういう言葉が浮かばないか?」
「そうだな。だがお前は雪辱と言った。なんて恐ろしい男なんだと内心 震えたよ」
「それは、俺に人の血が通ってないという意味だよな。雪辱っていうのは、自分のために使う言葉だからな」
「あれほど慕っていた信長様が死んだ直後にもかかわらず、気持ちを切り替えられていたという意味だ。しかし、だからこそお前は、一切無駄のない動きができたのだろう。私が敗れて当然だったと言ったのは、そういうことだ」
「泣いても喚いても、本能寺の灰になった信長様が生き返るわけじゃねえんだ」
「その通りだ。だからお前に、人の血が通っていないとは思わない」
「本当にそうか」
「くどいな。だがお前はあの時、すでに死んだ信長様のためではなく、自分のために行動したことに自責の念があったのか?」
「それに苛まれたのは、もう少し経ってからだけどな」
「そうか。しかしお前が泣いて喚いていてくれたら、決戦も私が制していた。あの時、他の何を捨て置いても、真っ先に兵を連れて京に向かわなくてはならないと判断したのは二人だけだ。一人はお前、もう一人は…」
「家康」
「そうだ。私が言うのも変だが、お前より先に、家康殿が京に着いていたほうが良かったのか?」
「良いはずがねえな。それじゃ、信長様がやってきたことを、家康なんかにむざむざ奪われる。だったら、俺が受け継いだほうがマシだったに決まってる」
「お前が苛まれたという自責の念が、消えたのはいつだ?」
「死んで、信長様に会ってからかな」
「なんだ。やはり同類か」
「お前にも、自分を責める気持ちがあったようだな」
「あった。それを地獄まで持って来たのもお前と同じだ」
「そうか、ざまあねえな。それを抱えたまま、俺より長く現世で苦しんだんだな」
「そうだ。お前の戦の、詰めが甘かったせいでな」




