第33話 ひらきたい
勇者の再臨。
そんなことがありえるのだろうか。
絶対にありえない。
それが、これまでのリンネの考えであった。
だが、眼前で繰り広げられている光景は何であろうか。
少女が宙を舞っている。
比喩ではない。
文字通り、空中で舞い踊っているのだ。
金糸のような巻き髪をたなびかせて、
くるくると、スカートの裾を翻し、
その手には黒い大剣。
複雑な文様が放つ光が一筆ごとに異なる色の線を引き、混沌を引き裂いていく。
少しずつ、少しずつ、チーズを削るように。
削り取られた肉片は、光の粒となって大気に溶けていく。
混沌とてやられるがままではない。
無数の人体を練り合わせて作った掌を少女に向かって伸ばす。
その速度は遅く見えるが、それは距離と巨大さから来る錯覚だ。
一本一本が、謝肉寺院の大礼拝堂を支える主柱ほどある。
矢のような速度で殺到する触手の群れ。
群がるそれを、優雅なステップで軽やかにかわす。
かわす。
かわす。
それはまるで、
蝶を追う子供の手のようであり、
天より垂れた糸に縋る亡者の手のようでもあった。
かわすたびに大剣が振るわれ、
指を切り落とし、
手首を切り落とし、
前腕を半ばから両断する。
「なんて動きだ……」
眼前で繰り広げられる絶美に奪われていた己の理性を呼び覚ますため、リンネはあえて声に出して呟いた。
「分析しなければ……」
まず、空中飛行の魔術。
通常、竜鱗の裔や翼腕鳥人、喋蝦蛄のような有翼種族を除けば、機械や魔道具の補助もなしに空を飛べる者などいない。ところがあの少女は、それらしい道具に一切頼っていないように見える。
また、混沌の因子は魔素に干渉する。あの怪物の直上は、魔力場が相当に乱れているはずだ。例え有翼種であってもまともに飛べる環境ではない。
にもかかわらず、少女は自在に空を舞っている。膨大な魔素出力と、精緻なコントロールが両立しなければ到底成し得ない所業だ。例えるなら、一本の絹糸の上を全力で駆けながら軽業を披露するようなもの。それほどの絶技を、少女自身よりも重いであろう大剣を操りながら、汗ひとつかくことなくやってのけている。
次に剣術の冴え。
リンネは剣術については完全な門外漢である。長剣と幅広剣の違いもおぼつかないほどだ。だが、そのリンネから見ても少女の剣の扱いは冠絶していた。その流れるような動きには一切の無駄がなく、闘争というより舞踊に近い。
いつだったか、東方から流れてきた人間の遺跡荒らしが振るった剣技に似ていると思った。界隈では名の知られた達人だったらしい。遺跡に住み着いていた緋緋色金の合金で出来た自動戦闘機を、片刃の曲刀の一振りで真っ二つにしていた。
その彼の絶技さえ、少女と比べれば児戯に見える。
完全に静止した水面のように、最後の一片が嵌まったパズルのように、あるいは幾何学的に正確に磨き上げられた真球のように。少女の剣の扱いは、もはや足すことも引くこともかなわない極致にあることを直観できてしまっていた。
そして、冷徹さ。
少女が削ぎ切る混沌は、数百、数千の人の集合で出来ている。そこかしこに人の手が、足が、顔が浮かび上がっている。何かを掴むように動く指。逃げ出そうともがく足。そして泣き叫ぶ顔。呆然とした顔。絶望し、感情の抜け落ちた顔、顔、顔。
それらを相手取って、刃筋にはわずかの乱れもない。ただただ淡々と、雑草を刈るかのように剣を振るう。肉片が舞う。風に消える。その中を、微笑みを浮かべたまま踊る、踊る、踊る。
この少女は、本当に人の心を宿しているのだろうか?
ここまで観察して、空中を刻む歩様に一定のパターンが存在することに気づいた。
リンネの知識にはないことだったが、禹歩と呼ばれる呪術的歩行法の応用である。三歩九跡、北斗九星歩、反閉、丁字歩、八卦歩。それに西欧神秘学のラビリンス・ウォーク、ブードゥーの円環舞踊を組み合わせ、体内魔素を最高効率で循環、出力。
それに必要な天文学的計算量は、大脳前頭前野、下頭頂小葉、脊椎を兼ねる円筒形可逆計算機と、その手に握る救星の魔剣に内蔵された重力子演算器を直結、並列稼働して賄っている。
それらが求める膨大なエネルギー――大崩壊以前の千万都市の需要をいくつかまとめて満たせるほどの――は、飛天鱗甲から移植した火嚢が支える。小太陽の如きそれが発する力を、粘体生物の体組織を変性させた疑似血管を通じて供給していた。
レイカの体内で生じている諸々の機序を、リンネが知る由もない。
だが、思った。
解剖したい
解剖したい
解剖したい
あの小さな体の中に、どれだけの秘密が隠されているのだろう。どれだけの真理が内包されているのだろう。一体誰が、いや、何が、どうやって、彼女をああ創ったのだろう。人と呼ばれる数多の種族の、すべての叡智が眠っているんだ。鍵穴を挿し込んで、開きたい。宝物庫の中身をすべて取り出し、隅々まで余すことなく調べ上げたい。
観察している間にも、混沌は削られ、削られ、削りきられ、完全に消滅していた。広場の石畳はすべて失われ、赤黒い土がむき出しになっている。この土の色は元々のものだ。かつて混沌との最終決戦が行われたこの地には、大量の鉄血が染み込んで変色している。さながら、傷ついた大地を塞ぐ乾いた瘡蓋のように。
周辺の建物は大半が原型を留めていない。混沌に侵食された箇所はすべて削り取られたのだろう。それは主として一階だったが、支えるものが失われれば二階以上が崩落するのも必然。時折ガラリと瓦礫が落ちる音が響き、人々が恐る恐る顔を出す。避難していた者たちだ。どういう手妻か、建物の崩落に巻き込まれて大怪我を負った者はいないように見える。
空に視線を戻す。
少女の姿が、ない。
とん、と軽やかな足音。
バルコニーに、少女が立っている。
ほんの一瞬、広場の様子に注意を映しただけなのに、その間に移動していたのだ。
ダンスを申し込む手のように、黒剣の鋒がリンネに向けられる。
「リンネ様、この舞踏会の趣向についてお聞かせいただけるかしら」
「どういう意味かな?」
「あなたが主催者なのでしょう」
「どうしてそう思うの?」
「地下の怪物。ほとんど混沌の獣になりかけていましたわ」
「へえ、古い言葉をよく知ってるね」
リンネは笑う。笑みの形に顔を作る。
「僕からも質問があるんだ」
「あら、わたくしの質問には答えてくださらないのに?」
かまわず、リンネは続ける。
「北西の遺跡にね、棺桶のような遺物がふたつ残されていた。中身は君たちだったのかい?」
「そのとおりですわ」
「ふふ、やっぱり。またひとつ小さな真理が解き明かされた」
勇者は再臨などしない。保存されていただけなのだ。
「わたくしは答えましたわ。リンネ様、あなたの番ですわよ」
「まだまだ聞きたいことはたくさんあるんだけど」
「質問ゲームは交代制。あなたのパスはもう使い切りましたわ」
「うーん、聞いたって面白くないと思うよ」
「聞いてもいないジョークをつまらないと決めつけるほど、わたくしは無粋に見えるのかしら」
「本当につまらないと思うんだけどなあ」
リンネは肩を竦め、
「真理が知りたかっただけだよ。自我、あるいは魂と呼んでもいいかな。それが発生する瞬間を知りたいんだ、僕は」
粘体生物は、大崩壊以前まで自我がなかったという。多元宇宙の衝突、混沌との融合、それらを経て、自我を得た。今となっては混沌の因子は何も特別な存在ではない。薄くだがこの世界に偏在し、すべての生命、すべての物質に影響を及ぼしている。これもまた、教団が認めない真理だ。
「知って、どうするおつもりでしたの?」
「はあ、やっぱりつまらないじゃないか。研究テーマについて話すと、『それでどうするの?』と必ず聞かれるんだよね」
リンネは両腕を広げ、天を仰ぎ見る。
「知りたい。知った。大満足だ。それでいいじゃないか。学問とはすべからく静なるべし。好奇心以外の雑念に囚われたら、ダメだと思うんだけどなあ」
「そのために――」
鋒が近づく。
リンネの喉元に触れる寸前まで。
体表がちりちりと焦げるような感覚。
「――何人、殺しましたの?」
「尊い犠牲だね。感謝するよ」
一閃。
視界が下がっていく。
下半身が吹き飛ばされていた。
べちゃりとバルコニーの床に落ちる。
「容赦ないなあ。結構仲良くやれていたつもりだったのに」
「ええ、過去形になったことだけが残念ですわ」
鋒が再び眼前に差し伸べられる。
リンネは顔面を変形させ、触手で天を指す。
「いいのかい? 過去形になった僕なんかにかかずらっていて」
少女が天を仰ぐ。
視線の先には星がひとつ。
昼間にも関わらず、明るく輝き、細長い尾を引いている。
「……聖剣」
「知ってるんなら話が早いや。教団の秘密兵器だってさ。ここいら一帯、混沌ごと吹き飛ばすそうだ。僕なんかより、よっぽど殺すんじゃないかなあ」
少女の姿が消えていた。
リンネは大急ぎで円筒状の器官を形成し、その中に皿状にした光受容細胞を幾枚も重ね、天に向ける。
白色に燃え上がりながら落下する棒を視界に捉える。
そして、それに向かう小さな人影。
閃光。
激烈な閃光が、リンネの光受容細胞を一瞬で焼き切る。
白い暗黒。
衝撃。
叩きつけるような爆風。
体細胞が千切れていく。
痛み。
体奥に隠していた侵害受容器が否応なしに巻き込まれ――
静寂。
静寂と暗黒が、リンネを包んでいた。




