第32話 わたくし、救世の勇者をしておりますの
赤い霧は薄れ、今は低い位置に靄がかかる程度になっていた。
リンネはバルコニーから身を乗り出し、光受容細胞を集中して眼下の光景に見入っている。
それは油絵具をでたらめにぶちまけた抽象画のようだった。
赤が、青が、黄色が、緑が白が黒が茶色が滅茶苦茶に入り混じり、地面を埋め尽くし、何か巨大な生物の内臓のように脈動している。あちこちで起きる小爆発は僧兵による銃撃だろう。衝撃波を発生させる鎮圧用の魔弾を使っているようだが、効果はあまりなさそうだ。
その上には、無数の人影が蠢いていた。
顔面を掻きむしって泣きわめく人間。頬の皮膚がべろりと剥がれ指に絡みつくが、すぐにとろけて指そのものに同化する。めくられた皮膚は瞬く間に再生し、再びべろりと引き剥がされる。
咆哮しながら手近な人間に喰らいついているのは食人巨鬼。若い女の肩口に噛みつくが、顎と肩肉が癒着し、顔を埋めたままくぐもった叫びを上げる。
竜鱗の裔が火の吐息で緑肌矮人を黒焦げの炭に変えるが、卵の殻を剥くように炭化した組織が剥がれ落ち、内側から現れた緑肌矮人がわけもわからない風にきょろきょろとあちこちを見回している。
いずれも下半身が脈動する異形の大地と融け合わさっている。大地からは代わる代わる人が生え、また溶け落ちるように沈んでいった。混沌に飲み込まれた人々が再生と融合を繰り返しているのだ。
「なるほどなるほど、他の生物や物質と融合しても、すぐに意識を失うわけじゃないのか」
リンネは目の前の光景を神経細胞の回路に刻み込み、体内の最も安全な深部にしまい込む。粘体生物は体細胞の位置を変更し、全身で効率的に記憶を行えるが、重要な記憶は損傷を防ぐために体表から遠ざけるのだ。
「同志ィいいいぃイ! リンネぇ同志ィいいいぃイ!」
己の名を呼ぶ声。
混沌の中央あたり、そこにイワナガの身体が生え、大きく手を振っていた。上唇と下唇が癒着しかかって糸を引いている。声帯や口腔も元の形は保っていないのだろう。人外じみた奇妙な発音になっていた。
「リンネ同志ィ! やリました やりまスィたゾぉ! 大ホウ壊 始源の地ゴク 混沌に満ちた世界の終ワリ! 勇者再臨のトキは来たレリぃ!」
イワナガの胴体が蛇のようにぬるぬると伸び、歪んだ塑像のような顔がリンネの眼前まで上ってくる。
「同志ィ! ユウ者サマは いずレより参ラレるのですカァ?」
「おお、すごい。これは何の性質だろう? 変形自体は混沌自体に備わっている性質なのかな? 胴体は……主として人間がつなぎ合わさっているのか。同族ごとに引き寄せられるのかな?」
「同志ィ!「勇シャサマは「ユウシャサマハハハ」
イワナガの右目が小さな口に変わり、右側頭部にも亀裂が走って新たに大きな口を形作った。残ったひとつの瞳がリンネを映しつつ、大中小三つの口がしきりに訴える。
「ふむ、意識の混濁は軽いようだ。眼球運動は……しまった。ペンライトを持ってくればよかった。滑舌の悪さは言語野の問題じゃなく、純粋に物理的なものだとして……でも頭部の変形が激しいなあ。これで損傷してないわけがないし。脳神経の接続は保たれたまま細胞が変性してるのかな。解剖できればはっきりするけど、うっかり触れたら取り込まれちゃいそうだしなあ」
「同志ィ「ドうシぃ「ドウシィィィ」
イワナガの手がバルコニーの手摺にかかる。石造りの手摺が熱した飴細工のように歪み、掴んだ指との境目が曖昧になる。石材に蛇が潜り込んだかのように、歪みが伝播する。リンネはそれが届く前に手摺から身を離した。
「このッ! 化物がッ!!」
銃声。
イワナガの頭部で氷が弾ける。
貴賓席の招待客のひとり、奈落鍛冶の軍閥貴族が指揮杖から弾丸を放っていた。軍人が儀仗を魔銃化するのは半ば常識だが、実際に発砲することは稀である。だが、この貴族はちゃんと日頃から手入れをして、氷結弾の実包まで装填していたらしい。頭部から広がった氷が、イワナガの胸から上を瞬時に凍結させた。
衝撃も高熱もあまり効果がなかったようだが、超低温はどうなのだろうか。じっと観察していると、もう一発銃声が響いてイワナガの身体が砕け散った。続けて通常弾を撃ち込んだようだ。観察を邪魔されて舌打ちしたくなるが、ぐっとこらえて破砕により明らかになった断面を観察する。
砕けた箇所は臍と鳩尾の中間辺り。通常の人間であれば内臓がぎっしり詰まっているはずで、人体がここから破断したなら大量の出血とともにそれらが溢れ出るはずだ。
だが、イワナガだったものは異なっていた。
露出した断面は、ほどよくサシが入った牛肉のような薄桃色の組織が埋めており、血管らしきものは見当たらない。中心に腕の太さほどの白い円柱状の構造物があり、そこから放射状に細い筋が伸びている。腱か軟骨のような組織で、酸素や魔素、栄養分などの運搬も兼ねているのだろうと当たりをつける。
白い筋が馬車に轢かれたカマキリのはらわたからまろび出たハリガネムシのように肉状組織から飛び出して暴れる。空中をのたうちながら人の顔の輪郭を網状にかたどり、根本から肉状組織が盛り上がって隙間を埋めた。
イワナガの頭部の形だ。皮膚はなく、髪もなく、眼球も耳朶もない。歯も舌もない口をぱくぱく動かしている。何かしゃべっているのだろうか。イワナガの脳があそこに存在していたと仮定して、それはもう粉々にされているのだが、記憶が残されているのか。あるいは形状と運動を真似ているだけなのか。会話ができれば確かめられるのだが、待っていれば舌や声帯、肺まで再生されて言葉を発するのだろうか。
イワナガの口の中で何かが動いた。
舌か?
だが、それは矢のように打ち出され、風を切り裂いて奈落鍛冶貴族の喉を貫いていた。
「旦那様ッ!?」
奈落鍛冶貴族が無言のまま膝を折り、側仕えの若い奈落鍛冶が取りすがって身体を支える。そして、その手が張り付いて剥がせなくなる。
「な、なんだッ!? 嫌だっ、やめろッ!!」
混沌と融合してしまったのだろう。若い奈落鍛冶が必死に暴れるが、触れた箇所が癒着してますます離れられなくなる。そのうち顔が奈落鍛冶貴族の背中にくっついてしまい、声も出せなくなった。
「リンネ! 貴様が元凶だろう! 一体何をしたッ!!」
室内からアルドールの怒声。
凄まじい形相で迫ってきて、ローブの襟を掴み、ぐいと引き寄せられる。
「おや、アルドール殿、てっきり避難されたと思っていたのに」
「僧兵への指示をしていただけだッ! それよりも貴様、あの化物に同志と呼ばれていただろうッ! 貴様の屋敷から怪物が現れたという報告もあった! 動かぬ証拠だぞ!!」
なるほど、寺院内には通信機もあるはずだ。それを使って連絡をしていたのだろう。僕への疑惑も確定したわけだ。いまさらとぼける必要もない。観察の邪魔者は排除しよう。
銃声。
反動が身体を震わせ、バックファイアが体内をわずかに焦がす。銃の周辺に痛覚受容器は配置していないので苦痛はないが、なんとも言えない不快感がする。
「……き、さま……何を……」
硝煙の匂い。
リンネの胸から突き出した銃口が細く煙を吐いていた。
体内に隠していた大型拳銃でアルドールの胸を撃ったのだ。射撃は苦手だが、この距離からの不意打ちなら外す方が難しい。
問いに答える時間ももったいない。
リンネは無言でアルドールの手を払う。
華奢な体が崩れ落ち、石の床に血が拡がる。
そう、床だ。
バルコニーはすでに混沌による侵食が始まっている。
だが、その速度は遅い。
生物に比べ、非生物への侵食には時間がかかるようだ。
「……ま……待て……」
ローブの裾が引かれる。
血まみれの手が裾を掴んでいた。
まったく、鬱陶しいことだ。
「……聖剣……発動を要請した……」
「聖剣?」
「……一帯が……いや、街ごと吹き飛ぶ……ぞ……。……死にたくなければ……これを……止めろ……」
はあ、とため息をつく。
もちろん、肺のない粘体生物にそんな生理反応はない。
アルドールに聞かせるために、わざとやってみせたのだ。
予想通り、アルドールの表情が歪む。
この街に来て、異端審問官には散々面倒をかけられたのだ。
多少、意趣返しに時間を割いてやってもいいだろう。
「聖剣を……知らんの……だろう……貴様の想像など……遥かに超える……」
「教団の最重要機密ですからね。そんな古代兵器のことなんて僕が知ってるわけないじゃないですか」
「きさっ……!?」
絶句するアルドールの表情を楽しむ。
聖剣とは、大崩壊時代に作られた対混沌兵器だ。人間と奈落鍛冶の技術者が協力し、残されたわずかな工業力を結集して作られたらしい。
その正体は衛星軌道兵器。
超高空から大質量の槍を投下し、地下深くまで粉砕するというなんとも乱暴なコンセプトの大量破壊兵器だ。全長18.3メートル。直径90センチメートル。質量2.7トンの金属柱が時速1.2万キロメートルで大地をえぐり、地下1キロメートル以上の目標をも壊滅させる。
当時は人類の希望としてもてはやされ、戦意高揚のために盛んに喧伝されていたらしく、古代遺跡では製造の進捗や破壊力をPRする新聞やポスターがいくつも発見されている――というのは遺跡荒らしであれば常識なのだが、教団は何故かこれらを禁書に指定している。
希少性も低く、内容の面から教団の教えに反するとも考えにくい。なぜこれがわざわざ禁書指定されているのかと言えば、教団が隠匿している兵器だからと推測するのが自然だ。そして、そういう仮説をもって教団の活動を観察していれば、それが真実であることもわかってくる。
「混沌に対する破壊実験かあ。そこまで大規模なものは想定していなかったけど、かえってありがたいですね」
「……貴様も……死ぬの……だぞ……」
「ははは、命が惜しくて科学者などやっていられませんよ。学問とは死ぬことと見つけたり、なんちゃって」
銃口をアルドールの額に向ける。
少ししゃべりすぎた。始末して観察に戻ろう。
「では、敬虔なる異端審問官殿は信仰に殉じてください」
銃声。
金属音。
表面に輝く複雑な模様が刻まれた黒い板。
バルコニーの床に突如として突き刺さった大剣の腹が、銃弾を跳ね返していた。
――今日の舞踏会は、一体どんな趣向なのかしら
空中から現れたのは、ひとりの少女。
切削刃の如き、金の巻き髪。
紫水晶の如き、紺碧の双眸。
白磁器の如き、滑らかな肌。
花の茎さえ手折れなそうな繊手が、ティースプーンでもつまみあげるように軽々と大剣を引き抜き、扇のようにすっと一振り。
石造りのバルコニーが両断され、混沌に侵食されていた部分が落ちていく。
「君は……」
リンネが記憶を探る。
いや、探るまでもない。
目の前の人間の少女は、彼がよく知る人物の外見的特徴をそのまま備えている。生物学者としての理性は、少女と彼女が同一人物だとはっきり告げている。
だが、生物としての本能はそれを激しく否定している。
あの何かにつけて役に立たないぼんやりした彼女が、目の前の少女とどうしても一致しない。圧倒的死の予感。異端審問官に捕らえられ、拷問をされた日々よりも遥かに濃密な死を、少女が身にまとっているのだ。これが同じ個体であると、どうして判断できよう。
「ごきげんよう、リンネ様。改めまして、ホウオウイン・レイカでございますわ。そして言い忘れておりましたけれど――」
空いた片手がアルドールを掴み、室内へと放り込む。絶妙な角度、絶妙な勢いだっただろう。アルドールの瀕死の身体は着地の音さえさせずに奥へと滑っていった。僧兵や侍祭が見つけて応急処置をすれば、命は助かるかもしれない。
「――わたくし、救星の勇者をしておりますの」
ホウオウイン・レイカは、大剣の鋒を眼下の混沌へ向けて、微笑んだ。




