第23話 一宿の恩をお返ししますの!
「血液検査には時間がかかるから、結果は明日の朝まで待ってほしい。その間に何かあってもいけないから、シルバー君はうちで預かろうと思うんだけど、かまわないかな?」
と、嘘をつく。
シルバーなる巨狼をじっくり観察する時間がほしかった。
昔は嘘が苦手だったが、いまはすっかり得意になってしまった。いちいち研究の本当の狙いを話していてはスポンサーが見つからない。真の目的を隠しつつ、いかに自分の研究が相手の利益になるかというプレゼンを繰り返すうちに身についた技術である。
「そうなのですね……」
レイカは不安げな表情でシルバーを見つめている。ペットの身が心配なのだろう。
リンネ自身は生物をそういう目で見たことはないが、ペットに家族のような愛着を持つ者がいることは知識として知っている。そして、それは幼い飼い主ほど発生しやすい。生まれて初めて見た生き物を親だと認識する生物がいるが、その逆もあるのだろう。経験による学習が少ないうちは、生物種としての帰属意識が希薄なのかもしれない。
「夜も遅いし、君たちに支障がなければ屋根を貸すことくらいはできるけど」
ここでやっぱり連れ帰ると主張されても面倒だ。そう考えて、助け舟と見せかけてシルバーをここに残すよう誘導する。シルバーを置いて帰る、連れて帰るという二択に、一緒に泊まるという選択肢を加えてやった。単純に「連れて帰る」という選択肢を選ぶ確率が下がるし、初対面にもかかわらずここまで譲歩した相手の提案は断りづらいだろうという狙いもある。
「泊まってよろしいんですの? それは助かりますわ!」
「……ん?」
しかし、返ってきたのは予想外の反応だった。
少しは悩むと思ったのだが、それどころか満面の笑顔で快諾されてしまったのだ。さすがに従者が何か言うのではと思ったが、直立不動のまま何の反応もない。お嬢様の言うことは絶対、ということなのだろうか。
(あるいは、従者の方も護衛なしで夜道を帰るのは不安だったのかな?)
一等市民街の治安は悪くはないが、それでも無防備に夜道を歩けるほどではない。最近も、謝肉街の議員宅が爆破される事件があったはずだ。犯人は捕まっておらず、捜査は難航しているらしい。テロなのか、怨恨なのか、強盗目的だったのかすら不明だ。
「了解。それじゃ、この部屋は自由に使っていいよ。生憎、寝具の用意はないから勘弁してほしい。僕自身、そういうものは使わないからね」
誰かを泊めるという想定をしたことがなかったため、屋敷にはベッドや布団のたぐいは何もなかった。粘体生物が眠るときは擬態を解いて丸まればよいだけで、他種族のような寝床を必要としないのである。せいぜい、床が冷たければ敷物を、風が冷たければ適当な布でも被るだけである。
「お気遣いありがとうございますの。でも、ご心配なさらなくても大丈夫ですわ。だって、シルバーがとってももふもふですもの!」
レイカが銀狼のお腹にぼふっと飛び込む。確かにあれなら下手な寝具などよりよほど寝心地がよさそうだ。セバスという従者の方はソファに眠れば問題なし、といったところだろうか。相変わらず直立不動のセバスだが、シルバーに冷たい視線を向けている。なかなか面倒くさい性格のようだ。それにしても、この彫像のような青年が横になる姿が想像できない。
「じゃ、何のお構いもできなくて申し訳ないけど、僕は失礼させていただくよ。やりかけの仕事が残っていてね」
予期せぬ来客で中断してしまっていたが、まだ実験の途中だった。机いっぱいの寒天培地にカビを植え付ける作業だ。げんなりするが、やらなければ実験の結果が出るのが遅れるだけである。巨狼も気になるが、こちらは明日にでも改めて詳細に観察させてもらおう。
「まあ、お仕事中でしたの? お邪魔をしてしまって申し訳ございませんわ」
レイカががばりと起きて、ぺこりと頭を下げた。金のドリルがびよんびよんと揺れている。まったく律儀なことだ。上流階級には高慢なものが多いが、この娘はよく躾けられている。
「一宿一飯……いえ、一宿一医の恩義に預かった上、ご迷惑を受けたままというわけには参りませんわ。よろしかったら、そのお仕事をお手伝いさせていただけないかしら?」
しかし、いきなり突拍子もないことを言う。
礼儀は躾けられているが、常識は身についていないようだ。薪割りや皿洗いじゃあるまいし、研究者の仕事を素人が手伝えるとでも――いや、待てよ。
リンネの研究は極めて専門性が高いものだが、今回の作業については単純作業と言ってよい。つい先程も自動機械に任せられないものかと愚痴っていたではないか。研究スペースに人を入れるのは少し気が進まないが、核心に触れる研究は特定の部屋でしか行っていない。万が一、二人が研究内容を狙った密偵や、異端審問官の手先だったとしても、その部屋に入れさえしなければ秘密が洩れる心配はないだろう。(そして、本当に密偵ならこんなトンチキな方法で接触はして来ないだろう)
「――それなら少しだけ、手伝ってもらおうかな」
そういうことになった。
* * *
「このガラスのお皿に、一滴ずつ別々の液を垂らせばよいんですの?」
「うん、そのとおり。間違えると台無しになっちゃうから、それだけは気をつけて。急がなくて構わないから」
二階の廊下に設置した簡易な滅菌室(除塵用の風晶機と殺菌用の魔術灯だけを備えている)を抜けて、二人を実験室に通した。髪と口は布巾で覆ってもらっている。
見慣れない設備や道具が多いせいだろう、マスク越しで表情が見えないが、レイカははしゃいでいるようだ。セバスの方は引き続き感情を表に出さないが、仕事を手伝うことについて文句はないようである。
「じゃ、僕は他の仕事を片付けてくるから。すぐ戻ってくるけど、もし手順がわからなくなっちゃったら手を止めて待ってて」
やりかけだった仕事について説明を終え、リンネは一階に戻った。厨房の冷晶庫にしまった銀狼の血液を適切な保管場所に移すためだ。地下への階段を降り、金属製の扉の前に立つ。合言葉を唱えながら体色を複雑に変化させると、重々しい軋みとともに扉が開いた。リンネ以外には開けられない特注の魔術錠である。
中に入ると、種々の吼声が一斉にこだました。
甲高い絶叫、狂乱する囀り、地を震わせる唸り声――すべて地下室で飼育している怪物たちのものだ。リンネは研究のために、様々な怪物をこの地下室の檻に飼っていた。この地下室にはリンネ自身も開発に関わった迷宮化の技術が応用されており、外部からは想像もできないほど広い。
「こうやって怪物を集めてるから、獣医に間違えられるんだよなあ」
ぼやきつつ、一角に設けた実験用スペースの冷晶庫に銀狼の採血管を収める。血液サンプルは色によって分別していた。赤、青、緑、紫。銀狼の血は、他の赤血球ベースのサンプルに比べて、より鮮やかな赤色をしている。種族的な要因なのか、あるいは無警戒だったことが影響したのか。興味は尽きない。
「あの銀狼も、たぶん深層のものだろう。できれば色んな実験をして、解剖もしたいけど、さすがに許してはくれないよなあ。買い取らせてくれたらいいんだけど、あの子がずいぶん可愛がってたからなあ。お金でなびきそうな感じでもないし。診察に見せかけて非侵襲性の調査をなるべくやらせてもらって、可能な限りのサンプルを採取するのが正解かなあ。下手に警戒させたらそれも許してくれなくなりそうだし」
一人になったことで、癖の独り言が一気に溢れ出る。
棚から古びた書物を一冊抜き出し、触手でぱらぱらとめくる。大崩壊以前に出版された生物学の教科書だ。人間が編んだもので、魔素も混沌の因子もなかった世界の生命について概略を学べる。どうやら初学者向けのものであまり専門的な内容には触れられていないが、それでも十分有用な知見に溢れている。豆をかけ合わせると一定の割合でシワのあるものとないものに分かれるなど想像したこともなかった。不意に毒ガスを噴き出すものや、動物に噛みつくものが生まれてきたりはしないのだ。
「さて、そろそろ戻るかな。お茶くらいは出した方がいいんだろうけど、一応無菌室だから飲食は勘弁してもらおう。まあ、与圧できてるわけじゃないし、なんちゃって無菌環境だけど」
二階の部屋を戻ると、二人が作業の手を止めていた。
途中で手順がわからなくなってしまったのだろう。試料の数が多いから、そういうこともあろうとは思っていたから残念とは思わない。代わりのつもりなのか、器具や資料で雑然としていた部屋がすっかり片付いている。勝手に片付けられると何がどこにいったかわからなくなって困るのだが、ぱっと見た感じ、どれもわかりやすく整理されていてその懸念もなさそうだ。
「片付けありがとう。もともと頼んでた仕事の方はどれくらい進んだかな? わからなくなったところを教えてくれるとありがたいんだけど」
尋ねると、セバスが軽く目礼し、
「ご依頼の作業なら完了致しました。手隙になりましたので部屋の片付けもさせていただいたところです」
「えっ?」
馬鹿な。地下室に行っていた時間はそんなに長くない。いくら二人がかりとはいえ、その間に終わる作業ではなかったはずだ。何か根本的に手順を間違えてしまったのではないかとシャーレと試料を確認するが――
「か、完璧だ……」
思わず、驚きの声が洩れてしまった。
試料とシャーレの突き合わせてもズレは見当たらない。おまけにそれぞれの作業に使った使い捨てのスポイトにまでラベルをつけてシャーレの前に置き、確認もしやすいようになっている。こんなことまでは指示していなかった。
「す、すごいね。ひょっとして前にもこういう仕事をしてたことある?」
「いえ、初めての経験でございます」
「わたくしもお手伝いしたかったのに、セバスったらひとりでさっさと片付けてしまったんですのよ。ひどいわ」
「申し訳ございません、お嬢様。お嬢様のお手を煩わせるほどのことではないと思い、出過ぎた真似をしてしまいました」
待て、二人がかりどころじゃなく、このセバスという青年ひとりであの作業を済ませたというのか? ひょっとして、彼も粘体生物? いや、触手操作に特化した達人だってこんな短時間では――
「ねえ、リンネ様。わたくしもお手伝いをしたいのだけれど、他にも仕事はあるかしら?」
「あ、ああ、うん。細々したことなら色々あるけど……」
動揺したまま、ついそんなことを口走ってしまう。
いや、実際細々とした雑事は溜まっているのだ。
リンネは流されるまま、二人に仕事の手伝いを頼んでしまっていた。




