第22話 シルバーはとっても優しいワンちゃんですの
「はあ、ホウオウイン・レイカさん? 申し訳ないけど、僕と面識はないよね? 誰かの紹介かい?」
なんだ、不浄霊ではなかったのか。
若干の不満を滲ませつつ、面識の有無を尋ねる。エントランスの柱時計の短針は深夜零時を回っている。こんな時間に知り合いでもない相手の家を訪ねるなど非常識にもほどがあるだろう。他種族の中には粘体生物と単細胞生物とを混同し、睡眠など不要だろうと誤解をしている不心得者もいるが、そんなことは決してない。リンネが宵っ張りなだけで、普通の粘体生物ならばこの時間には大抵眠りに就いている。
「夜分に突然の訪問失礼を致しました。失礼は承知の上でお伺いしたゆえ、主人自らまずご挨拶をさせて頂いた次第です」
後ろに控えていた青年がずいと前に出る。
闇夜さえ吸い込むような黒髪に、上等な蝋のように白い肌、黒曜石を嵌め込んだような双眸をこちらに向け、胸に片手を添えて深々と頭を下げる。どうやらレイカと名乗った少女の従者らしい。
「紹介は隣の街区の御婦人より頂戴致しました」
「隣区の御婦人と言われても……」
候補が多すぎる。一時期、「領主府の方から来ました」と言って役人を騙る詐欺が横行したそうだが、それよりもひどい。
「お名前は伺いそびれてしまいましたの。後日、改めてお礼をしたいと申し上げたのですが、そのまま急いで立ち去ってしまわれましたわ。とっても奥ゆかしい方でしたのね」
それは通りすがりというのではないか。
無邪気に微笑む少女の見ながら、リンネは思った。
ここまで来て、この深夜の訪問者たちは、精一杯好意的な表現をしても、だいぶ様子がおかしいことに気がついた。
まず、深夜にお嬢様風の人間が従者と歩いているのがおかしいし、百歩譲ってペットの散歩だとしても、今度はうちを訪ねてくるのがおかしい。目的は強盗くらいしか考えられないが、それなら玄関を開けた瞬間に襲いかかってくるだろうし、それ以前にこの華奢な青年と少女では誰でも簡単に返り討ちにできるだろう。
つまり、何が何やらさっぱりわからない。
「ええっと、一応聞くけど、ご用件は……」
わからないことがあると、つい確かめずにいられないのがリンネの性分だった。危険はなさそうだし、これくらいは構わないだろう
「シルバーが病気になってしまいましたの」
「シルバー? その従者さんのことじゃないよね?」
青年は不快げに首を横に振る。
「私ではなく、この哺乳綱食肉目イヌ科とおぼしき生物の名でございます。このイヌ科とおぼしき生物めは、お嬢様のお慈悲に触れて同行を許されたのですが、路上で文字通りの道草を食み、腹でも壊したのか嘔吐を致しまして――」
「もう、セバス。イヌなんて呼んだらひどいわ。シルバーにはもうシルバーという立派な名前がありますのよ」
セバスと呼んだ従者の言葉を遮り、レイカは頬を膨らませ、腰に手を当てて不満を表明している。なるほど、この子が名付けたのか。
「失礼致しました、お嬢様。イヌ科とおぼしき生物改めシルバーが腹を下したようでして、お嬢様がご心配をなさって獣医を探し求めたところ、こちらを紹介されたという次第です」
レイカが気遣わしげに撫でる銀毛の狼を名で、セバスがそれを横目で見ながら言う。その眉間にはかすかに皺が寄っている。どうやらこの青年は狼に嫉妬しているようだった。
少々どころではなく呆れてしまうが、それはともかく、どうしたものかと考える。しばしば誤解を受けるが、自分は獣医ではなく生物学者だ。だから、お門違いだと追い返すのが一番簡単な対応なのだが、狼が気になる。
奇妙な主従に注意を奪われていたが、よくよく見れば狼も普通ではない。
輓馬にも勝る巨体、全身を覆う銀色の体毛。迷宮に棲息する怪物の一種ではないだろうか。食人巨鬼の迷宮探索者が銀の毛皮を持つ狼を飼っていると噂に聞いたことはあるけれど、それと同じ種類だろうか。人を介して買取の打診をしたのだが、法外な値段を吹っかけられて交渉を打ち切った。実物を見るのは初めてだ。生物学者として、どうにも好奇心が疼いてしまう。
そんなわけで、
「うーん、僕は獣医じゃないけど、一応生物にはそれなりに詳しい。それでもよかったら診てあげるけど、構わないかい?」
「まあ! ありがとうございますの! 感謝を致しますわ!」
先ほどよりもいっそう丁寧なカーテシー。
ドリルのように整った金の巻き毛がびよんびよん揺れる。
草をはみ、嘔吐し、いまは元気。となると、おそらく毛玉を吐いただけだろう。獣医でなくともそれくらいはわかるが、飼い主なら過剰に心配もするものだ。適当に医者らしい素振りでもしつつ、好奇心が満足するまで観察をさせてもらい、可能ならサンプルも取ろう。
そう考えて、リンネは二人と一匹を屋敷に招き入れた。
* * *
屋敷の中に入れると、改めて狼の巨大さに目を見張った。一歩歩くたび、床板がぎしりぎしりと悲鳴を上げ、床が抜けてしまわないか少し心配になる。
「片付いていなくてすまないがね。一応ここが応接室だ」
とりあえず応接室に通してみたが、ただでさえそう広くない部屋が半分になった気がした。そして残るスペースも読み散らかした資料や書きかけの書類などで埋め尽くされている。一応、応接室だけは来客用に片付けているつもりだった。だが、いざ実際に客を入れると、それが自分の思い込みに過ぎないことに気付かされて、ひとり苦笑いする。
「まあ楽にしてくれるかな」
ソファに散らかしていたレポートをざっとまとめてローテーブルの本の上に積む。これで座る場所は確保できただろう。普段は椅子など使わないから、うっかり物置台として使ってしまっていた。骨も筋肉もない粘体生物に、椅子という家具は高さの調節以外に意味を持たないのだ。
「ありがとうございますの! 失礼いたしますわ」
しかし、レイカは気にした風もなく勧めたソファに腰を下ろした。どこぞのご令嬢風だから嫌がるかなとも思ったのだが、少なくともそれを顔に出さないくらいの礼儀はわきまえているらしい。夜中に押しかけてくるくらいだから、きっと我儘放題に育てられたのだろうという予想は少し裏切られた。
一方、従者のセバスはソファにはかけず、斜め後ろで直立不動の姿勢を取っている。その立ち姿はいかにも端然として、初めて入った部屋にもかかわらず、まるでそこにいるのが当たり前だという雰囲気を醸し出していた。周囲に溶け込むというより、主従一体となって辺りを自分の色で染め上げているかのようだ。
「さて、診察だけど……」
狼の前に立ち、少し考える。
相手はおすわりの姿勢だというのに、目線の高さはこちらと変わらない。その大きな口にがぶりとやられたら、ひと噛みで上半身が消えて失くなるだろう。その程度で死ぬことはないが、少なからぬ記憶や知識が失われ、復旧には長い時間がかかる。せっかく研究が軌道に乗ってきたのだ。そんなリスクは避けたい。
「これ、触っても大丈夫かな?」
というわけで、飼い主にお伺いを立ててみる。
番犬のようなものだろう。主人の言うことは聞くはずだ。そうでなければ華奢な二人が真夜中の散歩に連れ回したりは出来まい。
「大丈夫ですわ。シルバーはとっても優しいワンちゃんですの。ね?」
レイカが紫の瞳で微笑むと、狼はくうんと鼻を鳴らした。その仕草はまるきり人懐っこい座敷犬のようだ。
それで安心して、診察らしきものを開始する。
まずは下瞼を押し下げて眼瞼結膜を見る。綺麗なピンク色で炎症は起こしていない。嘔吐の原因が寄生虫であれば免疫作用によって粘膜に炎症が起きやすいが、少なくともここには症状が見られない。鼻汁が出ておらず、呼吸も苦しそうではないので鼻腔はスルー。
レイカに頼んで狼の口を開けてもらった。レイカが「シルバー、お口を開けて」と命じるだけで素直に口を開けたものだから驚いた。この狼は人語を解するのだろうか?
触手の先端に光受容細胞と嗅細胞を集め、口腔内部に伸ばす。異様な口臭はなく、舌、歯茎、咽頭粘膜も健康的な色をしていて、胃酸で荒れている様子はない。
「ふむ、とりあえず嘔吐は一時的なものみたいだね。採血をしても?」
「はい、大丈夫ですわ。シルバー、ちくっとしても我慢をするんですよ?」
デスクの抽斗から注射器を取り出し、前肢の内側に当てる。表皮を貫けなかったらどうしようかと思ったが、問題なく針が通った。怪物の毛皮は時に熟練の戦士の槍さえ弾くものだが、思いの外手応えがない。攻撃として認識されていないからだろうか。怪物の中には死後に溶けてなくなってしまうものさえおり、意思や状態によって強度や特性が変化するとされているが、生きた個体で実際に試せたのは初めてのことだった。針を刺されても無警戒な怪物とは、それほどに珍しい。
「ありがとう。本当に大人しい子だね。ちょっと調べてくるから、ここで待っていてくれるかな」
「はい、ですの!」
採血管を持ち、別室へ移動する。
ここは診療所ではなく、リンネも医者ではないのだから、血など採ったところで病気の有無はわからない。これは単純にサンプルが欲しかっただけだ。詳しく調べてみなければ確たることは言えないが、十中八九、あの銀の巨狼は迷宮由来の怪物だろう。血液検査をすれば高濃度の混沌の因子が検出できるはずだ。
採血管を厨房の冷晶庫にしまい、応接室に戻る。
「血液検査には時間がかかるから、結果は明日の朝まで待ってほしい。その間に何かあってもいけないから、シルバー君はうちで預かろうと思うんだけどかまわないかな?」




