第19話 魔槌ヌ=エンド
イスグングゲズィは息も絶え絶えに見知らぬ通路を駆けていた。もはや体力は限界で、肺は口から飛び出しそうで、心臓は破裂しそうで、膝ががくがく震えて、汗にまみれた全身が丸ごと言うことを聞かなくて、それでも、
「ホウウィニ……逃げろ……セバス……逃げろ……逃げろ……逃げろ……」
肺に残ったわずかな空気で、その声を絞り出す。わずかに残った腕の力で、鉄棒を振り回して壁を、扉を叩く。
二人が閉じ込められている場所など、イスグングゲズィには見当もつかない。危機を知らせたからと言って、逃げられるかもわからない。だがそれでも、それでも、
「ホウウィニ……逃げろ……セバス……逃げろ……逃げろ……逃げろ……」
同じ言葉を繰り返す。
死の恐怖も、体の苦痛も、すべてが頭から消え去っていた。
残っていたのは、二人をこの死の屋敷から逃さなければならないという、その一念のみ。
ぐぺ
背後で奇妙な音が聞こえた。
ガスで膨れた死骸が破裂するような。
直後に生暖かい液体が降りかかる。
無数の柔らかいものが背中にぶつかる。
足がもつれる。身体がよれる。壁にぶつかって、倒れる。
「ホウウィニ……逃げろ……」
立ち上がれない。
うつ伏せに倒れたまま、力を振り絞って、鉄棒を持ち上げ、床を叩く。
「ひゅー、よくがんばったねえ。もう少しでゴールだったんだけど、惜しかったねえ。ガキどもの部屋はこの真上だったんだぜ? いやあ、階段の選択を間違ってなけりゃなあ」
「はあ……はあ……、悪くない狩りだったが、もう少し短く出来なかったのかね?」
哄笑が近づいてくる。
ジンガルドガルドとウドライェドワの声。
「ま、ガキどもの部屋にたどり着いたところで何の意味もなかったけどな。見張りもいるし、扉も壁も頑丈そのもの。お前、気づいてたか? さっきからその自称ヌ=エンドでガンガン叩いてたのによ、ドアにも壁にも床にも傷一つついちゃいねえ。石材を魔術でコーティングしてんだよ。迷宮の壁とほとんどおんなじ強度だ。俺だってぶっ壊そうと思ったら、そこそこ手こずる代物だぜ?」
必要のない説明。
お前などが何をしようと無駄だったのだと思い知らせるためだけの。
だが――
「ホウウィニ……セバス……逃げろ……」
こつ、こつ。
鉄棒の柄で、床を叩く。
それはもう足音よりも弱々しい。
「はあ、折れねえやつだなあ」
呆れたような声。
「そういうやつは好きなんだよ。だから最後にご褒美をやりたくってさ。このまま何もできねえまま終わったら、おめえも浮かばれねえだろ?」
どすん。重い音。顔の真横。
銀色の槌頭が、無造作に突き立てられている。
「今からお前の指を一本ずつ潰してやる。せいぜい悲鳴を上げろよ? その声がガキどもに届けば、万が一ってこともあるかもしれねえからな」
ひゃはは。
嘲笑。
槌頭が持ち上げられ、視界から消える。
「さあ、せいぜいいい声で鳴いてくれよ。せーえーのっ――」
床を叩く重い音。
痛みは、まだ来ない。
痛覚さえも、疲労で摩耗しきってしまったのか。
「まあ、グング様! こんなところで横になられて。いくら殿方でもはしたないですわ。それに、お召し物がすっかり汚れていらっしゃいますの」
は?
かろうじて、首を声がした方に向ける。
そこにいたのは、丸く切り抜かれた天井を背景に立つ、金の巻き髪を揺らす少女の姿だった。
* * *
「はあ?」
ジンガルドガルドは間抜けな声を洩らしていた。
若造の指を潰そうとヌ=エンドを振り上げた瞬間、天井が崩れ――否、切り抜かれ、人間の少女が降ってきたからだ。
部下たちが化粧を落としたのだろうか。赤銅色だったそれは人間の肌色に、角や牙はなくなり、元から変わらぬ切削刃のような金の巻き髪がびよんびよんと揺れている。やたらひらひらしたドレスに、いかにも歩きにくそうな踵の高い靴。
しかし、その手に握られているものだけが異様だった。
それは黒い大剣。
その身幅は少女の腰より広く、
その刀身には罅割れのような溝が走り、
その溝からは極彩色の光が溢れて穏やかに明滅し、
「やっぱり、舞踏会がございましたのね。闘争のお相手はあなたかしら?」
少女はそれを軽やかにくるりと回して、鋒をジンガルドガルドに真っ直ぐ向けた。
(な、何なんだ……?)
ジンガルドガルドは咄嗟に飛び退き、ヌ=エンドを構えた。
容姿だけで考えれば警戒に値する要素は何もない。
呑気に揺れる金の巻き髪、人間の子供にしてもなお華奢な手足と腰つき、殺気など微塵も宿さぬ碧い双眸。指一本。比喩ではなく、文字通りに指一本でへし折れそうな頼りない首。
常識外れの大剣を軽々と振り回す膂力は警戒すべきなのかもしれない。しかし、重量を誤魔化す手段などいくらでもある。姿の見えない少年の方が実は擬態族で、それが剣の姿に化けているという線が妥当か。擬態族はその身の質量も変化させられる。
そんな風に、理屈はいくらでもつけられる。
だが、ジンガルドガルドの頭蓋では、警報が大音量で鳴り響いている。
迷宮の大深層に潜ったときのような――否、それ以上の――感覚。命を脅かす危険で辺りの大気が満たされているような、冷え切った掌で心臓を直接掴まれているような、そんな感覚。
目の前の可憐な少女に、ジンガルドガルドはこれまでの人生で最大級の生命の危機を感じていた。
「まったく、何をしとるんだ。ちゃんと監視をつけていたんだろうな?」
しかし、ウドライェドワには何も感じ取れていないらしい。
監禁部屋から逃げ出した少女を睨み、苛立たしげに舌打ちをしている。
「床を壊してくるとは……それに、あんな剣も持っておらんかったろう。迷宮産の魔道具か何かか? それとも奈落鍛冶の兵器か? そんな護身具を持たせていたから必死で探しておったのか。まったく馬鹿らしい。多少気の利いた道具を持ったところで、人間の子供如きにまともに扱えるわけもなかろうに」
あまつさえ、嘲りさえもする。
いま起きたことは、すべてあの剣のせいなのか? 切り抜かれた天井の断面は鏡のように滑らかで、とても刃物で切ったものとは信じられない。ならばやはり、魔道具の力なのか? 建材にかけられた防護魔術を破り、分厚い石材を滑らかに切り飛ばすような魔道具? ないことはないが、なぜ墓荒らし如きがそんなものを持っている?
「はあ、グング君は後回しだ。まずはその人間を捕まえなさい。決して傷つけないようにな。最初に捕まえたものにはボーナスをやるぞ」
なかなか動かないジンガルドガルドにしびれを切らしたのだろう。ウドライェドワが部下たちに直接命令を下す。
部下たちは「へい!」と目の色を変え、一斉に飛びかかっていく。
雇い主としてのジンガルドガルドは吝嗇だ。必要以上の報酬を支払ったりはしない。分相応な報酬以上は得られなかった者たちが、雇い主の雇い主からボーナスをちらつかされたのだから無理もない。そして、部下たちにもジンガルドガルドが感じている脅威は伝わっていなかった。
殺到する食人巨鬼の巨体で少女の姿が隠れ――
「まあ、あまり一度に闘争を申し込まれましても、満足なお相手ができませんわ」
水平。
漆黒の剣閃。
食人巨鬼の群れが、上下に分割される。
真紅の花弁が舞い散る道を、軽やかな歩みが近づいてくる。
金の髪にも、白い肌にも、その長いスカートの裾にさえ、一滴の赤もついていない。
「は?」
間抜けな声。ウドライェドワだ。
目の前の光景が信じられないらしい。
(俺だって、信じられねえよ)
だが、事前に危険を感じていた分、判断は速い。
ウドライェドワの首根っこを掴み、少女に向かって放り投げる。
投げつけたのではない。目の前に差し出すように、そっと。
「ぷゲっ!? なっ、何をするッ!? 儂はお前の主人だぞ!!」
肥満体が豚頭人のように鳴く。
知ったことか。いくら金をもらっても、使えなくなっちゃ意味がねえ。
「ま、待ってくれあんた! あんたを拐って食おうとしてたのはこの豚野郎だ。俺は命令に従ってただけで、個人的な恨みなんざ何もねえ! こ、この通りだからよ。見逃してくれねえか?」
「きっ、貴様! 何を言っている!?」
豚が喚いている。膝立ちでこちらに手を伸ばす。
知っちゃこっちゃねえ。
許しを請うように頭を下げて、一歩、二歩、じりじり退がる。
「許さんぞッ! 報酬など金輪際払わんからなッ! いや、決してこの屈辱は――」
豚の鳴き声が唐突に途切れる。
頭がずるりと落ちて、べちゃりと湿った音を立てて床に転がる。
分厚い脂肪の白い断面があらわになる。
ちっ、囮にもなりゃしねえ。
しかし、少女の歩みは止まっていた。
剣を掲げて、形の良い眉をひそめて、小首を傾げる。
演技ではなく、心の底から困っているような、無邪気な表情。
「こうおっしゃっていますが、いかが思いまして?」
大剣を片手で掲げたまま、呟いている。
一体、誰に話しかけているのか。
「だ……駄目だ……。こいつは……、ジンガルドガルドは……絶対に恨みを忘れるようなやつじゃない……」
食人巨鬼の若造がよろめきながら立ち上がる。
黙ってろ。お前はお呼びじゃねえ。
「しかし……ええ……わかりますわ……でも……」
だが、少女は若造には答えず、何か独り言をつぶやき続けている。
これならば、この瞬間ならば。
ジンガルドガルドは後ろ手に隠していたヌ=エンドの柄を強く握りしめた。体内から急速に力が吸われていく。魔素を吸っているのだ。このヌ=エンドには使い手の魔素を吸い取り、破壊の力に変える能力が備わっている。
「死ねやぁぁァあアあああアッッ!!」
絶叫とともに、ヌ=エンドを振るう。
銀槌に刻み込まれた呪印が輝き、膨大な奔流となって先端から放たれる。通路が銀色で埋め尽くされる。視界が銀色で塗り潰される。山崩れも顔負けの轟音が耳をつんざく。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……。や、やってやったぜ! バケモンが!」
もうもうと立ち込める土煙に視界は塞がれている。
だが、その向こうに原型を留めているものは何もないだろう。
神話の魔槌ヌ=エンド。かの英雄マコマが振るえば、一振りで山脈を割り、二振りで平らに均してみせたという超常の破壊力。ジンガルドガルドでは全力で魔素を込めてもそんな真似はできないが、屋敷の一つや二つならば木っ端微塵にしてみせる。この切り札があってこそ、理外の脅威が渦巻く迷宮大深層を探索できた。ヌ=エンドこそが、ジンガルドガルドを特級探索者になさしめた秘密なのだ。
「はは……フハハハハハ! 見たかよォ! これがヌ=エンドの威力だぜッッ!! こいつがある限り俺は負けねえ! 絶対に死なねえ! あんなガキなんぞ、塵ひとつだって残しやしねえッ!!」
銀槌を振り上げ、勝利の雄叫びを上げる。
会陰が震え、精を洩らしそうにさえなる。
それは、初めて迷宮大深層から生還したときにも勝る爆発的な喜びで。
だがそれは、次の瞬間に終わった。
――やはり、闘争はなさいますのね
少女は、いた。
すぐ眼前に。
ヌ=エンドの全力が、なぜ。
――違うわ。ヌ=エンドは勇者の手に握られて、初めてヌ=エンドになりますの
俺の腹に、何かを突き立てている。
その何かを、華奢な手が扇でも畳むかのようにすっと上に持ち上げて。
――では、ごきげんよう
視界が、左右に分かたれて、ゆっくりと広がって、
「が……ア…………ぁ?」
真っ暗になった。




