第16話 お刺身にはお醤油とわさびですの
「い、いい匂いって……」
早々に立ち去りたかったが、呼び止められて、無視をするわけにもいかない。
イスグングゲズィは恐々と振り向いた。
「上等な肉の匂いがしているんだよねえ。ちょっと失敬」
たるんだ顔が近づくと、香水や香辛料や肉や魚の混じった得体の知れない香りが濃密に漂った。低い鼻を盛んに蠢かしている様子はまるで豚頭人だ。この貪欲な仕草もまた暴食公という異名の由来だった。
「さ、さきほど牛頭鬼のステーキサンドを食べたので、それじゃないですかね」
少しでも早く解放されたい一心でそんなことを口にするが、
「いやいや、これはそんなつまらん匂いではないよ。そうだねえ、極上の人間肉の香りが近い。あれは没落した商家のご令嬢だったか……。しかし、真古樹族や吸精鬼の上品な香りも感じる。じつに複雑で興味深い香りだ……」
ウドライェドワはイスグングゲズィの言葉を一笑に付し、目を閉じて深呼吸を繰り返している。まるで空気そのものを味わっているかのように。その顔は徐々に高さを落としていき、ホウウィニへと近づいていく。
まずい、いくらセバスの施した変装が見事でも、匂いまで誤魔化しているとは思えない。この鼻がホウウィニにたどり着いてしまったら、一体どうなってしまうんだ――
「おい、グング。忘れもんだぞ」
「ひいっ!?」
「なんて声を出してやがるんだ。ほれ、5人前だ。あー、代金は次の卸値からさっぴくからな」
いきなり紙袋を押し付けてきたのは、肉屋の親父だった。
その目が「余計なことをしゃべるんじゃねえぞ」と訴えている。イスグングゲズィが権力者たちに絡まれているのを見て、助け舟を出しに来てくれたのだ。
「おおい、なんてひどい匂いだ。せっかくの玄妙な香りが台無しじゃないか。これじゃ薔薇の匂いもドブの臭いも区別が付かんよ」
「ありゃ、こりゃすみませんね。おお、これはこれはウドライェドワ議員。うちの皮無しソーセージは祖母さんから教わった秘伝のレシピでしてね。よかったらおひとついかがです? いや、代金なんて結構ですわ。美食家で名高いウドライェドワ議員のお墨付きとなりゃあ――」
「ええい、それを近づけるな。わかったわかった。屋台ごと買ってやるから離れろ」
「ひゃあ! さすがは暴食公! 太っ腹だぜ!」
「いいから離れろと言っているんだ。おい、早く金を渡してやれ」
親父がウドライェドワの気を引いているうちに、なんとかその場を逃れることができた。路地に入って深い溜息をつく。危ないところだった。今後、ホウウィニを連れ出すときは気をつけないといけない。
「むう、ワンちゃんを撫でたかったですわ」
「いけません、お嬢様。野良犬にはどんな病原体や寄生虫がいるかわかったものではございません。触れるのならば素性が明らかな血統書付きでなければ。今回ばかりはイスグングゲズィもよい仕事をしたと言わざるを得ません」
「はは、そりゃどうも……」
しかし、冷や汗をかいていたのは自分だけだったようだ。なんだかひどく理不尽な目に遭っているような気がしてくる。
とはいえ、ホウウィニを抱えて走ったりしたものだから、セバスにはどんな文句を言われるかわからないところだった。それがなかっただけツイていたんだと、イスグングゲズィは自分に言い聞かせた。
* * *
暴食公ウドライェドワは不機嫌だった。
美食を重ねに重ねたこれまでの人生でも、一度も出会ったことがない馥郁たる香り。それが下品な皮無しソーセージの臭いなどで上書きされてしまったのだ。この数日、ウドライェドワの頭の中は、あの謎めいて蠱惑的な香りへの渇望で支配されている。
「ああ、あの香りの正体は何だったのだ。牛頭鬼などでは断じてない。皮無しソーセージなど論外だ。気になって気になって食事もろくに喉を通らん」
「………………して……」
「そりゃ困るぜ大将。選挙は近いんだろ? 近頃じゃ、なんとかって若造が清貧公とか呼ばれて囀ってるそうじゃねえっすか」
ナイフとフォークを動かす手が止まりがちなウドライェドワに、苦笑交じりの諫言を呈したのはジンガドラガドラだ。この迷宮探索者上がりの護衛は腕は立つが口さがない。別に参謀として雇っているわけではないから余計な口出しをさせる義理もないのだが、この男の人気と勇名を考えると機嫌を損ねて手放すのも惜しい。粗暴な男だがその力は本物で、強さを尊ぶ食人巨鬼にはその粗暴さすらも無骨という魅力にすり替わって映るのだ。
「清貧公か。あんな若造は相手にもならんが、視界の端をぶんぶん飛び回られるのは目障りだ。しかし、いま手出しをするのはさすがに露骨過ぎる。選挙後に折を見て始末を付けるとしよう」
「…………ろ……して……」
「へへ、そうなりゃ俺の仕事だな。ボーナスは弾んでくれるんだろうな?」
ジンガドラガドラが兇猛な顔を強欲に歪ませる。色々口出しはしてくるが、この男が求めているのは結局金だ。世間では迷宮の大深層に挑んだ英雄とされているが、それも結局金銭欲が死の恐怖を上回ったというだけの話である。銀狼の仔を迷宮から連れ帰ったのも、高く売れそうだと考えだけだ。仏心を出したわけでは決してない。まだ飼っているのは満足する値を付ける者が現れないだけである。
「そんなことより、儂が気になるのはとにかくあの匂いの正体だ。あれから何かわかったかね?」
「…………のむ……ころ……して……」
「大した情報はないっすねえ。そこの肉屋の親父の話の裏とりが出来たくらいっすよ。名前はイスグングゲズィ。西の辺境から五年前にやってきた田舎者で、未練たらしく迷宮組合に籍を残しちゃいるが、実際はケチな墓荒らし。最近になって親戚のガキ二人の面倒を見ている。どう考えても高級食材と縁のあるやつじゃないっすねえ」
そこで言葉を切って、ジンガルドガルドは気味悪そうにウドライェドワの食卓にちらりと目をやる。
「ところでそれ、美味いんすか? 何を食って生きてきたのかわかんねえオヤジの活造りとか、病気になりそうなんすけど」
「……たの……む……ころして……して……」
食卓に上っていたのは、ひとりの食人巨鬼だった。
イスグングゲズィが死体を卸していた肉屋の親父である。蒼白な顔、小刻みに震える瞼、虚ろに濁った瞳、死にかけの魚のように口を動かし、そのたびに剥き出しの肺がわずかに膨らむ。新鮮な赤色の心臓が弱々しく鼓動し、腹腔には内臓の代わりに薄切りの生肉が色とりどりの花びらと共に盛り付けられている。左腕には揚げ物が、右腕には焼き物が、その材料となった部位に沿って並べられ、両足があった場所には内臓の煮込みや肉餡を生地で包んだ料理などがところ狭しと並んでいる。
「なんだ、この風流がわからんのか? 確かに下賤な食人巨鬼肉だが、趣向を凝らせば食えんこともなくなるのだぞ。こやつの屋台でやっていたような調理法では話にならんがな。どれ、貴様も試してみたらどうだ」
「すんませんが、遠慮させてもらいますよ。肉はしっかり焼いて食えってのが祖母ちゃんの口癖でね」
フォークに刺した生肉を向けると、ジンガルドガルドがうへえと肩を竦めた。
まったく、これだから野蛮人は。食への探究心が足りないのだ。
内心で嘲りつつ、生肉を咀嚼する。脂の多い肉に、東方から取り寄せた豆を発酵をさせたソースと、鼻にツンと来る爽やかな香草の根のすり下ろしがよく合う。いずれもこのあたりでは作られていない高級品だが、大枚をはたいて取り寄せる価値は十分にある。
そして何より、鬱憤の対象を食うのは最高の調味料となる。
この貧乏人はウドライェドワの美食探求の邪魔をし、あまつさえ皮無しソーセージなどという下賤な料理を押し付けてきた。一口たりとも口にせず捨ててやったが、それで怒りが収まるものではない。あの香気をまとわせていた若者の情報を得るついでに、ウドライェドワの晩餐に招待してやったのだ。ウドライェドワの怒りを買った者――政敵や商売敵、密告者や不手際をした使用人など――が、これまで何人もこの食卓に上ってきた。
「調べてわかんねえんなら、直接聞くしかねえと思うんですがね」
ジンガルドガルドが下卑た笑みを浮かべる。
この男に食への興味などないだろう。興味があるのは追加依頼で得られる臨時収入だけだ。この肉屋を拐ってくるときも、それなりの金額を払ってやった。本分はあくまでも護衛であり、裏仕事は別口だと言うのがこの男の言い分である。そして、その別口で稼ぐ機会に余念がない。
小さくため息をついてから、命令を下す。
「別に締め上げる必要もなかろう。普通に尋ねればよいことだ。そうだな、招待状を出そう。わざわざお前の手を煩わせる必要もない」
「へいへい、かしこまりましたよ。まったく稼ぎ損なっちまったなあ」
あの若者には別に何の恨みもない。最初から事を荒立てては余計な出費がかさむだけだ。しかし、情報を隠したのなら話は別だ。美食はすべてに勝る快楽である。それを独り占めするために、秘密にする可能性はあるだろう。だから、ひとこと付け加えるのを忘れない。
「だが、もしもやつが口を割らなかったときはお前の仕事だ、ガルド」
「へへっ、精々あいつがごねてくれることを祈りやしょうかね」
片方の牙が折れた口が、残忍に嗤った。




