第11話 オーガー様のお宅訪問ですの
「んひぃっ!?」
驚いて、尻餅をついてしまった。
闇の中に、ぬうっと白い顔が浮かび上がっていたからだ。
今度こそ幽霊か。
そう勘違いしてしまうほど、暗闇に浮き上がった顔は人間離れしていた。すっと筆でなぞったような鼻梁。わずかに色づいた薄い唇。月光よりもなお白い肌。そして、どこまでも吸い込まれそうな漆黒の瞳。
人間離れした美しさだった。
食人巨鬼の自分が、食欲よりも恐れを抱いてしまうほどに。
「まったく、お嬢様に悪い虫が近寄らないよう見回っていれば、こんな大きな虫を見逃していたとは……。このセバス、一生の不覚。――貴様、何者だ。名を名乗れ」
「い、イスグングゲズィ!」
反射的に自分の名を叫んで、イスグングゲズィは少しだけ我に返った。
幽霊ではない。これは正真正銘人間だ。初めは気が付かなかったが、近づいてきてわかった。黒髪と黒い執事服が闇に沈んでいて、見えなかっただけなのだ。目を凝らせば、透けてもいないし両足もある。
「お嬢様のお手に触れようとするなど万死に値する」
しかし、窮地は去っていなかった。
元幽霊の人間は、底知れぬ殺気を放ちながら距離を詰めてくる。表情は澄ました真顔で、怒気など浮かべていないのだ。にもかかわらず、全身から冷たい圧力を放っている。
イスグングゲズィは尻餅をつきながら後退り、腰の鉄棒を探る。必死に手を動かすが、虚しく尻を叩くばかり。ああそうだ、さっき尻餅をついた時に放り出してしまったんだ。視界の端に、黒光りする鉄棒がちらりと光る。
「待って、セバス。グング様は不逞の輩ではございませんわ」
鈴を転がすような声がして、元不浄霊――セバスと呼ばれた青年が足を止めた。ホウウィニが小さな両手についた泥を払いつつ、イスグングゲズィとセバスの間に立つ。尻餅をついてなお、その切削刃のような金髪は見下ろす高さで揺れていた。
「しかしお嬢様、暗く人気のない場所で年端も行かぬ少女に声をかけ、あまつさえ連れ去ろうとするなど、アーカイブによれば『事案』と称された一大事にございます。一都市に丸ごと警戒が呼びかけられる危機レベルであったとか」
「違うわセバス。声をかけたのはわたくしだもの」
「しかしお嬢様、連れ去ろうとしたのは事実」
「違うわセバス。帰る家がないと言ったら、お屋敷に招待してくださっただけよ」
「お言葉ですがお嬢様、何も違っておりません」
確かに何も違っていない。
イスグングゲズィは自分の立場も忘れて、セバスという青年の言葉に全力で頷いていた。
「状況から申し上げて、脅威度は極低。しかし誘拐の可能性は95%にございます」
合っている。
「まあ、どうしましょう」
味方だった少女も、両手で口を塞いで碧い目を見開いている。
イスグングゲズィのこめかみを冷たい汗が垂れた。
「でも5%は誘拐ではない可能性がございますのね?」
「ただの親切である可能性も否定はしきれません。アーカイブの事例ではそのほとんどが老女によって行われますが、壮年の男性によって行われる場合もございます。前者の場合はただの市民。後者の場合は引退した殺し屋など、元アウトローであることが大半です」
「なるほど」
なるほどではない。
一体何の話をしているんだ。
「では、きっとグング様は後者ですわ。だって、マコマ様のお知り合いなのですもの。弱きを助け強きを挫く、仁義に厚い無頼の硬骨漢に違いありませんわ」
「なるほど」
なるほどではない。
黒い瞳がこちらに向けられる。
「イスグングゲズィとやら。お前は無頼の硬骨漢か?」
「はい?」
だから何の話をしているんだ。
「烈士、侠客、快男児、ピカレスク、ヴィジランテでもいい。分かる単語はあるか? あれば、お前はそれに当てはまるのか?」
「はっ、はい!」
よくわからないが、いや単語そのものの意味はすべてではないがわかる。わかるのだが、話の流れがよくわからない。しかし、直感がイスグングゲズィの首を縦に振らせた。ここで首を横に振ったら、何かひどいことになりそうな予感がしてならない。
「なるほど。――お嬢様、不明をお詫びいたします。お嬢様のご慧眼の通り、イスグングゲズィ殿は無頼の硬骨漢であったようでございます」
「いいのよ、セバス。それよりも、お詫びすべきはわたくしではないはずよ」
「はっ。イスグングゲズィ殿、大変失礼致しました。この通り、深くお詫び申し上げます」
セバス青年が胸に右手を添え、深々と頭を下げる。
その所作さえも美しく、イスグングゲズィは思わず見入ってしまった。
「では、参りましょう!」
「へっ? どこに……?」
「もちろん決まっておりますの。グング様のお屋敷ですわ!」
少女が、碧い瞳を無邪気に輝かせていた。
* * *
イスグングゲズィが住む長屋は謝肉街の外れにある。
名の由来は街区の中心にある星教団謝肉派の寺院で、街区のどこからでも飛び出した鐘塔の先端が見える。鐘塔の銅板葺きの屋根は、その晩も筋引き月の光を橙色に照り返していた。
「まあ、広々としておりますのね! ここがエントランスホールですの?」
「いや、ホールとかそういうんじゃなくて、この部屋と地下室があるだけだけど……」
「まあ、ひとつのフロアに一部屋しかございませんのね! 斬新ですわ! きっと高名な建築士の方がデザインをなさったのね!」
玄関から入るなり、ホウウィニは歓声を上げた。
イスグングゲズィは自分の腰ほどの高さにある金のドリルを見下ろして、はたと気づく。
(広い? ああ、人間基準じゃそうなのか)
部屋に家具はほとんどなく、木彫りの椅子が一脚と、棕梠の葉を編んだ籠と敷物がいくつか転がっているだけだ。他に目につくものと言えば、部屋の隅に地下室に続く竪穴がぽっかりと口を開けているくらい。
何もないという意味ではだだっ広いかもしれないが、食人巨鬼としては狭苦しい単身者向けの間取りだ。田舎を出てきてもうすぐ五年、イスグングゲズィはこの部屋に住み続けている。
なお、二階がないのは食人巨鬼の住居としては一般的だ。体重を支えられるように作ると建築費がかさむからである。ここのような安普請では平屋と地下室の組み合わせとなるのが普通で、二階以上があるのは金持ちや貴族の家ぐらいなものだ。謝肉寺院の鐘塔が街のどこからでも見えるのは、他に高い建物が少ないというのも理由である。
何が面白いのか、ホウウィニは巻き髪をびよんびよんさせながら部屋のあちこちを見て回っている。どこを見たって変わり映えしないと思うのだが。一方、セバスは微動だにせずその様子を見守っている。
(ふう、なんだかすごく疲れた……)
イスグングゲズィは椅子にどっかと腰を下ろした。椅子もまた食人巨鬼サイズで、もしホウウィニが座ろうとするならまず這い登らなければいけないだろう。種々の動物を象った彫刻が施されたそれは、水よりも重く締まった蔓皂莢の削り出しで、この部屋で最も……いや、唯一値打ちのあるものだった。イスグングゲズィが田舎から持ち出した唯一のものでもある。都会の食人巨鬼では廃れつつある風習だが、謝肉派では椅子を魂の座と教えており、ことさら大切にするのだ。この椅子も、十歳の成人を祝って贈られたものだった。
イスグングゲズィは両手で顔を覆い、深いため息をつきながら今日の出来事を振り返る。
まずいつものように共同墓地に行って、屍奪蟲を叩き潰して、妙ちくりんな人間の少女に出会った。それから異様に迫力のある従者が出てきて――そういえばどうして他の屍奪蟲が出てこなかったんだろう。結構騒いでいたと思うのだが――いや、それよりも従者だ。冷静に考えると家出少女に従者とはおかしい。ひょっとして駆け落ち? いやそんな感じでもない。恋仲などではなく、世間知らずのお嬢様と忠実な従者という雰囲気だ。まさか本当にどこぞの貴族のお姫様で、屋敷が敵対貴族に襲われて、二人きりで逃げてきたとか? 『食人巨鬼の休日』のワンシーンが脳裏をよぎる。確かあの幻画では――
「イスグングゲズィ殿」
「はいっ!?」
くだんの従者から呼びかけられて、イスグングゲズィは我に返った。
言葉遣いこそ丁寧だが、感情の感じられない黒い瞳で見つめられると背筋がぞわっとしてしまう。
「な、何か……」
「失礼ながら、お嬢様がおかけになる椅子などはございませんか」
「あっ」
言われて、不作法に気がつく。
慌てて部屋中を見回すが、人間サイズの椅子などあるわけもない。敷物の茣蓙を慌てて引き寄せ、丸めて高さを出す。
「お嬢様、お疲れでしょう。こちらにおかけください」
「ありがとう、セバス。グング様もありがとうございますの!」
ホウウィニが腰を掛けると、それはまるで数人がけのソファーに見えた。




