97.天使の受難、悪魔の囁き2
一流の剣士の動きに無駄はなく、まるで本当に斬ったようだった、とマルコの副官は後にマリーノに語った。
血のりを噴き出し、倒れるコントゥッティ。絶叫するマルコ。痛ましい表情を浮かべるジャンニ。
副官はまた、熱演のあまり、コントゥッティが生き返りそうな勢いで腹を押さえるマルコや、「間に合ったはずなのに、何故」と何度も悔しがってみせるジャンニのくどさに、「勘のいい者には気づかれてしまうのではないか」と、はらはらし通しだったという当時の心境も吐露している。
さりげなく演じるということについて、カルミネが直々に教えてやりたいような二人だった。
父トゥリパーノの逮捕のきっかけとなった例の遺書は、コントゥッティが表向きは死んでから、マルコの監修の下でじっくりと練って書き上げたものである。
「今回の最大の功労者だ。労に報いたいと思ったが……」
「いいんじゃないでしょうか。これが本人の希望なんですから」
このまま死んだものとして、新しい身分を得たい――コントゥッティは迷いのない目でそう言い切った。
ヴェネツィアの地で生き返っても、パーリアやトゥリパーノらの縁者が彼を逆恨みして、報復に来ぬとも限らないから、と。
「まあ、言っていることは実に彼らしい」
コントゥッティは旧大陸にすっぱりと別れを告げ、英国の港からアメリカに向かう。
前世紀の末に生まれた若い国へ、新しい名で。
「――で、そなたは何故、レオに会いにいかない?」
突然訊ねられて、分厚いベストの下で心臓が跳ねた。
「それは……」
「甘えん坊の王子様が、あばら家でずっと待ってるぞ」
「ま、ま、待ってなんか」
あの夜、当然のごとくクッキアイオ宮に運び込まれたレオは、遊び疲れた子供のように、丸一日ぐっすりと眠り込んでいたという。
然もありなんとカルミネも思うが、彼はなんと、意識を取り戻すや否やクッキアイオ宮から逃亡し、あばら家に舞い戻ったそうである。
「住み慣れた家の方が、回復が早いから」とか何とか、真偽のほどが不明なことを言い張って、シルヴィオを振り切ったという。
帰郷してきた時も、何だかんだと理由を付けて、あばら家に住み着きたがっていたから、レオにとっては本当に落ち着く場所なのだろう。
手負いの獣が、巣の中で体を休めている――。
誰もそうは言わないが、皆そう理解したようで、クッキアイオ宮への帰還を強いて促す者はいなかった。
今はシルヴィオがまめに通い、米のスープを食べさせたり水を飲ませたりと、細やかに世話を焼いているらしい。ジャコモやパオロもちょくちょく様子を見にいっているということだった。
「意外だな。何ならレオの枕元で、ずっと手を握っていそうなお前なのに」
「私は、彼に会う資格なんて……」
騙すつもりではなかったとはいえ、ずっと彼を騙していた。そんな自分が、どんな顔をして彼に会いにいけばいいというのか。
「レオはもう知っているのか」
カルミネは曖昧に首を振った。レオが彼女の正体に気づいているのかどうか、正直よく分からない。
「このままずっと会わぬつもりか」
卑怯だが、そうしようと思えばできる――。
悪魔のように美しい男は、その考えを見透かしたようにフンと笑った。
「そなたはそんなに臆病な娘だったか?」
「うっ……」
心臓をぐさりと刺されたように、カルミネが胸を押さえた。
マリーノはさてと立ち上がり、彼女に背を向けた。
「私はそろそろ行く。そなたももし出かけるなら、日の暮れぬうちに行くといい」
ジェルソミーナの葛藤をひしひしと背に感じながら、マリーノは何食わぬ顔で出口に向かう。
――レオ、これは貸しだぞ。
彼女が行くということを、マリーノは知っていた。
§
建付けの悪い扉を押すと、扉は嫌な音を立てて、ジェルソミーナを中に迎え入れた。
ああ、何だか懐かしい……。
カルミネの姿でならば、幾度となく訪れた、勝手知ったるあばら家である。
ジャコモの手が入ったことで、殺風景だった二間の部屋は随分人間の住まいらしくなった。カルミネにとっては、レオとのかけがえのない思い出がたくさん詰まった――。
振り返ってみれば、寝台でレオに乗り上げてしまったり、レオの裸を見てしまったり、抱き上げられたついでに足を回してしがみついてしまったり、上から覆いかぶさられて、あわや唇を奪われそうになったりと、神に顔向けできない類の思い出が多い。
羞恥に身悶えしながら寝室に向かうと、開けっ放しの扉の向こうにジェルソミーノの花舞い散る美しい衝立が見えた。
カルミネの為にレオが用意したものである。
淡い色の地に、風に吹かれる小花が柔らかく揺れる図柄は、優しいレオそのもののようだった。
手負いのレオは今も眠っているのだろうか。
もしそうなら、残念ながら帰るしかない。そうであってほしいと心のどこかで願いながら、ジェルソミーナは控えめに衝立をノックした。
「ん……。ああ、お前か。おいで」
今ので起きてしまったらしい、くぐもったレオの声がした。口調からして、来たのはカルミネだと思っているようだ。衝立の手前でジェルソミーナが躊躇していると、からかうような低い笑い声がした。
「シャツは着てる」
それはご親切に……。
レオが起きているのなら行くしかなかった。意を決して中に入ると、体を起こしかけていたレオがぴたりと動きを止め、ジェルソミーナを凝視した。
甘く物憂い灰色の瞳に映っているのは、いつもの三角帽子に白のバウタではなく、繊細なヴェネツィアン・レースのヴェールと、マントの下の白い僧服。ジェルソミーナは面会室で会った時と同じ恰好をしていた。
中途半端な姿勢のまま、微動だにしないレオに、ジェルソミーナが遠慮がちに近づいていく。レオは急に大きく息を吐き、豪奢なクッションに背を預けた。
「なんだ。驚かさないでよ……」
完全にカルミネだと思っている。レオが彼女から感じ取っている「気配」とやらは、修道院の面会室で一度会ったきりの冷たい娘のものではなく、いつも彼のそばにいる、彼の助手のものなのだろう。
気安く手を伸ばすレオに、ジェルソミーナは素直に頬を預けた。
「……」
レオが怪訝な顔をする。




