96.天使の受難、悪魔の囁き1
光り輝く熾天使のごときマルコ・パツィエンツァは、その夜以降も輝くばかりに多忙を極めた。
同僚たる十人委員会の委員たちの逮捕が相次ぎ、残された彼にしわ寄せがいった為である。
彼の指揮の下、魔獣事件の実行犯と特定されたイシドロとテオは、国外に逃亡しようとしたところを逮捕され、同時に醜悪な凶器も押収された。
一連の事件における大きな逮捕劇はこれが最後となったが、現実はチェスとは違い、決着がついてからの方が忙しい。
事後処理に休む間もないマルコの許へ、時折聖域から恩寵のごとき籠が届いた。
「パツィエンツァ殿、妹御からお菓子が届いております。『お兄様、ご無理なさいませんよう』とのご伝言も」
「ありがとう。そこに置いておいてくれ」
どうしたんだろう、最近随分と優しいな、と思いつつも、可愛い妹からの度重なる差し入れに、マルコも悪い気はしない。お茶の準備をさせ、一息入れることにした。
目頭を揉んで、何でもできるジェルソミーナお手製の、甘い焼き菓子を口に放り込む。
本件が落ち着くまで、半年はかかるだろうか……。
貴族の子息が政治参加する最初の年、二十五歳でマルコは既にこんな目に遭っている。
あっ。眩し……。
マルコは何気なく窓の外に目をやり、運河の明るさに驚愕した。日の出を見たのはついさっきだったような気がするが、気づけばもう午後である。
彼はひっそりとため息を吐いた。
罪深きヴェネツィアにおいて、熾天使の多忙は宿命であった。
§
マルコが身を粉にして働いている一方、マリーノと入れ替わりで牢に入った者たちにも、次々と沙汰が下っていった。
事件の主犯格たる二人のうち、フェデリーコ・トゥリパーノはひとつの国家反逆罪で、ニコロ・パーリアはふたつの国家反逆罪で、それぞれ有罪となった。
それ以外の者たちの裁きも粛々と進められ、あれだけ言われたにもかかわらず、やはり逃亡してしまった者たちも、十人委員会の手で速やかに連れ戻された。
トゥリパーノとパーリアの処刑は免れなかったが、たとえ両名の家族であろうと、事件への関与がなかった者には一切の咎めはなかった。
ヴェネツィアでは常の措置である。
他国に比して、国土も人口も限られたヴェネツィアでは、人材の無駄遣いは許されない。何でも無尽蔵なトルコとは違い、連座は手の届かぬ贅沢だった。
「ヴィルジリオが、ああも変わるとは……」
貴人用の牢から至高の座へ、一夜にして舞い戻ったマリーノ・フェリエラは、お気に入りの使い走りと共に、礼拝堂のベンチに座っていた。マルコに負けず劣らず多忙の身であったが、「忙しさにかまけ、信仰を疎かにしては示しがつかぬ」などと言って、ひと時、静かに祈る為に修道院を訪れている。
「びっくりするほど爽やかでしたね。別人のようです」
ヴィルジリオ・トゥリパーノは、一族の呪いを自分の代で最後にすべく、魔獣を自身の中に封印することを受け入れた。
ヴィルジリオの下した決断が、高尚な使命感からだったのか、処刑との二択でそうするしかなかったからなのかは誰にも分からない。
共和国の慈悲深き判決は、カテリーナ・ミディーカを食い破ったのが彼自身であれば処刑、彼の中の魔獣であれば、それを彼の中に封じることで、人間の方の彼の罪は問わぬというものだった。
トゥリパーノ家が魔獣と共に在った歳月はあまりにも長く、両者は既に分かちがたく結びついていた。
彼の中から魔獣だけを祓うことは、偉大なるアルジェント・クッキアイオをもってしても不可能だった。
己が命の中に魔獣を封じられた彼は、誰にも予想できなかったことに、一切の肉の欲を失った。同時に憑き物が落ちたように晴れやかな性格になり、周囲を驚かせた。
残りの人生は神に仕えたい――と、彼は清らかな目で言った。
「国外に出して、本当に大丈夫なんですか」
「魔獣は封印されているから問題なかろう。万一、本人の多情な性質が元に戻ったとしても、それはそれでいいじゃないか」
修道士となったヴィルジリオは、当局に密かに監視されていたが、ある時、イタリア本土のさる修道院が作った葡萄酒と夕餉の卓で出会い、天啓を得た。
――私もこの修道院で、葡萄酒作りに携わりたい。
ヴィルジリオを預かった修道院長が彼の熱意に打たれたことと、葡萄酒を作っている修道院の会派が同じだったことから、マリーノの許可が下りた後は、とんとん拍子に話が進んだ。
「あいつが作る葡萄酒なんて、ものすごく楽しみだ」
文化大国ヴェネツィアから来た、すっきり爽やかな見習い修道士は、きっとあちらでもうまくやっていくだろう。
そして、国外に渡る者がもう一人。
「ル……ルキーノ・トゥッティは、もう英国に着いた頃だろうか」
マリーノは未だ、彼の新しい名に慣れない。
ミディーカ家元家令、ルカ・コントゥッティは無傷で生きていた。
トゥリパーノ家家令の専属使用人、ダンテ・スパートラを取り込んだマルコは、コントゥッティへの襲撃計画を知り、敢えて人通りの少ない狭い路地を護送経路に選んだ。
ルカ・コントゥッティを殺してみせる為である。
マルコが襲撃者と事前に接触し、綿密な打ち合わせを重ねていたことは、マルコの副官だけが知っていた。
人命のかかった計画であり、マルコは万全を期す為、マリーノにも詳細を報告しなかった。
――勝利を確信するまでは、パーリアは決して気を抜かない。だから、コントゥッティには確実に死んでもらう必要がありました。
「いや、あいつの判断は正しかったと私も思うが、私はあの時本当に負けたと思ったし、死を覚悟したからな?」
「兄がすみません」
当のコントゥッティと、別動隊を率いるジャンニにすら、計画が明かされたのは護送の前日だった。
護送当日、マルコは万が一にも双方の被害を出さぬよう、「生け捕りに」と何度も皆に言い含め、デッレ・ヴェルジニ修道院を出発した。
果たして襲撃者は現れ、秘密の合言葉が交わされた。
「腕を惜しまれよ」(準備オッケーですか)
「既に犬の身なれば」(オッケーです)
これを合図にコントゥッティが前に躍り出た。




