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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第7章:ラ・ベッラ・エポカ

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95.ラ・ベッラ・エポカ5

「――旦那ッ」


 カルミネが息せき切って駆け寄ると、レオが無事な方の手を伸ばしてきた。


 同じように手を伸ばしたカルミネの指をきゅっと握り、レオは覇気のない声で「大丈夫」と囁いた。


「旦那ッ、死なないで……!」


 カルミネはレオのそばに膝をつき、涙ながらに懇願した。先程、いとも乱暴に脱ぎ捨てたバウタは問題なく再装着している。レオは眠そうに「うん」と頷いた。


「これしきでは死なぬだろう。まあ、疲労の極致ではあろうが」


 聖域で瀕死の状態にされ、冷たい半地下の牢にしばらく転がされた後、休む間もなく屋根を走り、窓を蹴破り、最後の仕上げに手のひらを撃たれている。さすがに体が音を上げたようだった。


「じきにシルヴィオが来る。それまでレオのそばについていてやれ」


 ジェルソミーナは目に涙を溜めてこくりと頷いた。


 マリーノが行ってしまうと、彼女は弱気の虫を振り切るように頭を振り、きびきびと訊ねた。


「旦那、僕に何かできることは――」


 レオはぼんやりと夢見るような面持ちでカルミネの指を解放し、カルミネの胸に手を当てた。


 ――なんだ、今日はぺったんこか……。


 そんなふざけた呟きが聞こえる。カルミネは一瞬身を強張らせたが、レオの手を振り払うことはせず、おずおずと上から自身の手を重ねた。


 分厚いベストの下の鼓動を、分け与えようとするように。


「泣くな……僕は、大丈夫だから……」


 困ったようにレオが微笑むせいで、ジェルソミーナの涙はかえって止まらなかった。


 手のひらに穴があいている。痛くなかったはずはないし、大丈夫なはずもない。


 ――僕の心を差し上げます。


 いつかの薔薇色の朝焼けの中、そう言って彼女に速い鼓動を捧げた少年は、あの頃よりも随分と大人びた表情をするようになった。


「……ミーナ」


「なあに、レオ」


 あっ、しまった。


 分厚いベストの奥で、ジェルソミーナの胸がどくんと打った。


「……」


 レオは睫毛を震わせ、それきり意識を失った。


「あっ、駄目……」


 ずるずると倒れ込むレオの体を支え、ジェルソミーナは自身の膝の上にレオの頭を乗せた。大事な主を床に寝かせるなど、忠義者のカルミネには考えられないことである。


 ジェルソミーナは労わるように漆黒の髪を撫でながら、今の迂闊なやり取りを振り返った。


 さすがに気づかれてしまっただろうか……。


 頑ななまでにカルミネとジェルソミーナを結びつけないレオだったが、ジェルソミーナはさっきの最後の瞬間だけ、声を取り繕うのを忘れてしまっている。あれが聞こえていたとしたら、さすがにレオも気づいただろう。


 もう、それでもよかった。


 膝の上のレオは、ジェルソミーナに髪を撫でられながら、幼子のようにすやすやと眠っている。


「レオ、ゆっくり休んで……」


 シルヴィオが来るまで、ジェルソミーナには何人なんぴとたりとも彼の眠りを邪魔させるつもりはなかった。


 慌ただしい怒号と靴音の行き交う広間で、主にようやく訪れた休息の時間を守るのは、彼の助手たるカルミネの、ひいては彼女の役目だった。


「ねえ、レオ……」


 さらさらと髪を撫でながら、彼女はカルミネの声音ではない、自身の声で呼びかけた。


 私が少年の恰好をし始めたのは、あなたにもう一度会いたかったから――。


 そんなことを告白すれば、彼は驚くだろうか?


 でも本当のことなのだから仕方がない。もう一度会って、あの時の非礼を詫びて、「ありがとう」と伝えられたら。ずっとずっとそう思っていた。


 ――今の、キャピュレット家のお嬢さん?


 あの夢のような夏の日に、機会は突然やってきて。


「……ねえ旦那。あの時も、その後も。機会はいくらでもあったのに」


 結局今日に至るまで、何も伝えていない自分がいた。


「レオ、大好きよ……。初めて出会った時からずっと」


「ん……」


 レオの唇から返事のような声が漏れ、ジェルソミーナは慌てて口を閉ざす。


 その後は、シルヴィオが到着するまで、ひたすら膝の上のレオを黙々と撫でていた。


 カルネヴァーレの夜空を彩る花火の輝きが、割れた窓から時折差し込み、気紛れに二人を照らす。


 ジェルソミーナにとって幸いだったのは、目と鼻の先にいる実兄が現場の指揮を執るのに忙しく、彼女の後ろ姿をちらりと見ただけで済んだことであろう。

第7章:ラ・ベッラ・エポカ(完)

あと4話で完結

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