94.ラ・ベッラ・エポカ4
仕方なく、本当に仕方なく、レオは放たれた銃弾を手のひらで受けた。
痛たぁ――。
レオが痛みによろめいた隙に、カルミネが敵を撃つ。利き腕の肩を砕かれ、パーリアが堪え切れずに銃を落とした。レオは穴の開いた手のひらをそっと下に向け、中に留めていた銃弾を床に落とす。
事ここに及んで、ようやくレオの怒りに火がついた。
「何故こんなことを。マリーノ・フェリエラはあなたに害意など持っていなかったのに! それどころか――」
――現実感覚のある手堅い実務家という印象だ。
マリーノは彼の手腕を認めているような口ぶりだった。
「マリーノ・フェリエラ……」
どちらもずるずると座り込みながら、パーリアは肩を押さえ、忌々しげに呟いた。
「何故も何も……あの腑抜けには、強いヴェネツィアを取り戻そうという気概がなかったのでな」
「強いヴェネツィア……?」
何だそれは。
ヴェネツィアは淫らで軟弱で軽薄で、持たぬ者の知恵のみをよすがとする、したたかな弱者の国ではなかったか。
「若き者、お前は」と、パーリアは苦しげに笑った。
「ビザンツの後継者たる誇りを忘れ、アドリア海の娼婦となり下がった共和国しか知らぬのだろう。違うのだよ、これはあくまで仮の姿。一時の忍従に過ぎぬのだ」
「何言って……」
レオには本当にパーリアが何を言っているのか分からなかった。パーリアは困惑するレオに構わず、熱に浮かされたように言葉を続ける。
「かつて我らが手にしていたものを、再び取り戻すのは我らの責務であろう。ジョヴァノット、今や機は熟した。我らが獅子の共和国が、再び全ヨーロッパの覇者となる時が来たのだ」
「マリーノがせっせと稼いだカネで?」
レオは反射的に言い返した。
「そのカネで軍事化にでも舵を切るつもりか」
マリーノ・フェリエラ治下のヴェネツィアには、唸るほどの富と、この世のあらゆる美があった。無いのは他国に攻め入る軍事力と、一等国の名誉だけ。
「――『かつて我らが手にしていたもの』?」
笑いが漏れた。
そんなものレオは知らない。
面白いように敵を打ち破る、ヴェネツィア艦隊の比類なき強さを、どこまでも広がる共和国の版図を、戦利品を山と積んだ、ヴェネツィア軍艦の華々しい凱旋を、二度と戻らぬ古き良き時代を。
「そんなもの……」
ニコロ・パーリア、そんな遠い昔の話、あなただって知らないじゃないか――。
レオは言下に吐き捨てた。
「下らない」
「まったくだな」
天鵞絨の声がさらりと同意した。
――え?
声のした方に目を向けると、上質な黒衣を悪魔の羽のようにまとった、美しい男が立っていた。彼の背後には十人委員会の兵が、傍らには鈍色の金髪を持つ、熾天使のごときマルコ・パツィエンツァがいる。
「マ……マ……!」
「医者を連れてきた」
マリーノが軽く手を上げると、鞄を持った男が二人、それぞれレオとパーリアに向かって無言で駆け寄ってきた。自身の前に屈んだ医者に穴の開いた手のひらを委ねながら、レオは呆然とマリーノを見上げる。
マリーノは呆れたように浅く笑った。
「やんちゃも程々にしろ。助手が泣くぞ」
「う、うるさい」
つい先程、貴人用の牢の中で、この世の終わりのような顔をしていた男と同一人物とはとても思えなかった。
マリーノの傍らにいる熾天使が、広間に朗々と声を響かせた。
「先日、賊の刃に斃れたルカ・コントゥッティが、すべてを明かす遺書を残していたことが分かった」
ルカが? とレオは目を丸くする。
包帯をきつく巻かれ、顔をしかめながらも、レオは自身もコントゥッティにしてやられたかのように、はぁ……とため息を吐く。
言われてみれば万事卒のない彼のこと、遺書の一つや二つ、残していてもおかしくはない。
「鑑定の結果、遺書は本人の筆跡であることが確認された。よって共和国はこれに基づき、トゥリパーノ家家令、ラウロ・カッリャーレ、及び彼の専属使用人、ダンテ・スパートラを拘束した」
広間にざわめきが走るが、マルコの声を遮るほどではない。何名かがさりげなく広間を出ようとしたが、出入り口はすべて十人委員会の兵たちに封鎖されている。
「両名は魔獣事件への関与を自白し、フェデリーコ・トゥリパーノの指示だったと認めている」
マルコがそう宣告した瞬間、フェデリーコ・トゥリパーノは床に崩れ落ちた。彼の息子は呆然自失の体でその場に立ち尽くしている。
マルコの隣にいる美しい男が告げた。
「今宵はフェデリーコ・トゥリパーノを逮捕しにきたのだが、せっかくだから罪を自白したニコロ・パーリアも連行することとしよう」
威風辺りを払う、麗しきヴェネツィアの首席行政官は、特別な日の総督行列のような足取りで、ゆっくりとパーリアに近づいた。
「トゥリパーノの供述次第では、更に罪が増えるであろうが」
補佐官を見下ろす彼の目には、どんな感情も表れない。
「ニコロ・パーリア。我らがかつて手にしていたのは、力のある者が当然に、より重い責務を負う、ヴェネツィア貴族の矜持ではなかったか」
水を打ったような大広間に、静かな天鵞絨の声だけが響く。
オルソが水鳥の前に進み出た時代にあったもの。
小さな派閥争いに明け暮れ、強い者とカネに靡く、当代のヴェネツィア貴族が失ったもの。
「それを再び取り戻すかどうかは、我ら次第であろう」
「……」
パーリアは何も答えなかった。
マリーノも答えなど期待していないようで、軽く手を上げ、兵を促す。
トゥリパーノとパーリアが速やかに連行されていった。
主を失い、再び動揺と怯えが渦巻き始めた広間で、マルコは容赦なく輝く熾天使のように、朗々と声を張り上げた。
「本件に関与した者は、皆この場で出頭せよ。出頭せず、後から関与が判明した者には、更に重い罰を科す」
幸いなるかな、先程レオの脅しに恐怖の火柱を立ち昇らせた者たちは、魔物ではなく天使に連行されることとなった。




