91.ラ・ベッラ・エポカ1
レオはカルミネを抱き上げ、「じっとしてろ」とマントの中に覆い隠した。
――えい。
足の幅ほどの細さしかない窓の縁にひょいと飛び降り、目の前に広がる薄く繊細な窓硝子を遠慮なく蹴破る。思ったより派手な音がして、懐から「旦那、お怪我は⁉」と鋭い声が飛んできた。
「ない」
招かれざる客、呪われた一族の裔にして、魔物の血を引く美しい若君は、蝋燭の灯りきらめく大広間へ、きらきらこぼれる破片と共に乱入した。
さて、と煌びやかな室内を見渡すと、皆が驚いたようにレオを見ている。
――この登場の仕方は予想外だったか。
「驚かせて申し訳ない。夏場と違って窓が閉まっていたものだから」
ついてもいない硝子の破片をカルミネのマントから丁寧に払い、レオは物憂くペスト医の仮面を脱ぎ落した。
「つれないな、パーリアさん。僕を招いてくれないなんて」
レオに名指しされ、会場の注目を一気に集めたニコロ・パーリアは、髪の毛一筋ほどの動揺もなく余裕の笑みを見せた。
「……お義母様を頼む」
カルミネのバウタに祝福を与えるように口づけ、レオが小声で囁いた。殊更に見せつけるような口づけは、すべての仕草が皆から見られていると知った上でのことである。魔物の加護が与えられた者に手出しをすれば、どうなるか分かっているな――?
レオが一人一人の顔を順にゆっくりと見ていくと、怯えたように顔を背けられたり、後ずさられたり、十字を切られたりした。いい兆候だ。さすがは高位貴族の集まり、レオが半魔だという情報は十分に共有されているのだろう。
粉々になった窓から少し離れたところで、顔を青くして着席しているアデリーナに、レオは大丈夫ですよと頷いた。ちょっと驚いたが、アデリーナがここにいる理由など大体見当はつく。アデリーナの周囲にいる者たちに、レオは一応釘を刺しておくことにした。
「お義母様に針の穴ほどの傷でもつけてみろ。八つ裂きにして喰ってやる」
アデリーナの周囲にいた者たちが震えあがり、さっと距離を取った。これでよし。「何という言い草です、レオナルド」と後でたっぷり叱られるだろうが、そこは甘んじてお受けいたしましょう。
レオは物憂い笑みを漏らし、静まり返った広間にコツ、と靴音を響かせた。
誰に邪魔をされることもなく、広間の中央まで歩を進める。その途上でレオがちらりと目をやったのは、トゥリパーノ家当主、フェデリーコ・トゥリパーノだった。
パーリア補佐官は目下のレオの獲物ではない――今はまだ。
レオは立ち止まり、皆の方を気だるげに振り返った。
「聞け。僕はマリーノ・フェリエラと契約した」
とろりと甘い半魔の声が、罪深き人間たちの心臓をつうっと一撫でした。
レオが仄めかしているのは無論、人間同士が交わす通常のそれではない。不穏なものを感じ取った人々のざわめきが、広間のあちこちで小さな渦を作る。
――知りたいだろ? どんな契約か。
レオは出し惜しみせず教えてやった。
「我が美しき契約者は、彼の魂と引き換えにこう願った――彼が無実の罪で処刑された瞬間、彼を陥れた者たちを一人残らず喰い尽くしてくれ、と」
その瞬間、一部の招待客たちの背に、火柱のような恐怖が立ち昇った。レオは彼らの顔を見回し、舌なめずりする悪魔のように微笑む。
信じたようだな……。本当に僕にそんな真似ができると。
無論、そんなことは願われていない。これはマリーノとの契約――否、約束を果たす為のはったりだった。これでマリーノの処刑は当分、見合わせられることになるだろう。後ろ暗いところのある者たちにとって、彼の処刑はそのまま自身の死刑宣告となる。
敵陣の楽しい祝賀会に乱入した、レオの目的はただ一つ、時間稼ぎだった。
事を一気呵成に片づけたいのは、落ち着いて証拠を吟味されては具合の悪いパーリアで、時間はレオの味方だった。少しでも長く引き伸ばせば、後はマルコが何とかしてくれる。あちらがもし起死回生の一手を期待していたなら、肩透かしで申し訳ないが、そんな切り札、レオは持っていなかった。そもそもここまで不利な状況を、レオ一人で逆転できるとすら思っていない。レオは半魔である以前に、どこまでも現実的な、生粋のヴェネツィア人だった。
罪深き火柱の数は、目算で出席者のおよそ三割ほど。思ったほど多くなかった。残りの七割は仔細も知らず勝ち馬に乗りにきた者と、中立派と日和見派の混成といったところだろうか。ではパーリア派の主力三割の悪事をせいぜい残りの七割に印象付けて、今日はお暇することにしよう。
レオは父トゥリパーノに狙いを定め、にっこりと微笑んだ。
「この事件の中心人物たるあなたとパーリア補佐官に敬意を表して、あなた方お二人を喰らうのは最後にしようと思っています……フフッ」
パーリアより格段に御しやすいと踏んで、レオが今夜の最初の獲物に選んだトゥリパーノは、レオの心遣いに感謝するどころか、脂汗を流してがくがくと震え始めた。この反応はもはや自白も同然だったが、これだけでは少し心許ない。レオは他の面子にも貪欲に食指を動かした。
「そうだな……」
レオはお菓子を選ぶ子供のように、出席者の顔をじっくりと順に眺めていった。罪の自覚がある者にとっては拷問に等しい時間である。レオは先程から殊更に高い恐怖の火柱を立ち昇らせている細身の紳士に目を留めた。
クッ、と妖艶に唇を歪め、
「まずは、あなたから――」
「ヒッ」
紳士はレオの言葉を最後まで聞くことなく、泡を吹いて失神した。
――意外とうまく行かないものだな……。
「私は悪くない! 偽証はすべて、パーリアとトゥリパーノの指示だった!」とか何とか、割と決定的な感じのことを、残りの七割の前ではっきりと言ってほしかったのだが。




