90.謝肉祭のそぞろ歩き2
共和国の慈悲深き父――これより後、名実共に――たるニコロ・パーリアは、威厳に満ちた重々しい足取りで、自邸の半地下の牢に下りた。
盟友の子息の快復を寿ぎにゆく前に、忌まわしき客人が変わらずそこにいることを、自分の目で確かめておく為である。
パーリアの靴音が暗がりに反響し、主の来訪を下層の者に知らせると、鉄格子の向こうでだらしなく寝そべっていた半魔がのろのろと顔を向けた。
――こんなところに閉じ込めても無駄さ。
ニコロ・パーリアを前にしても、半魔は床に身を横たえたまま、そう言いたげにクッと唇を歪める。まるでマリーノ・フェリエラ台頭後の、爛れたヴェネツィアを具現化したような姿だった。
「フン……。ふてぶてしい」
誰にともなく吐き捨てると、牢番を任せていた下男の一人が不思議そうに首を捻った。
「そうですか? 殊勝に平伏しているように見えますが」
もう一人が不思議そうに相棒を見やる。
「何を言ってる? 子供みたいに腹をさすって、飯を要求してるだけだろ?」
「……」
牢の中の半魔の姿は、それぞれがそれぞれの心の内で思い描いている通りに見えている。
「――愚か者! 奴はもうおらぬ!」
パーリアの一喝で、半魔の姿は煙のごとく掻き消えた。
否、この私をどこまで愚弄するか。奴はとっくにいなかったのだ。
「――捜せ!」
何が起こったのか未だ把握できず、呆然としている牢番二人にパーリアが噛みつくように命じると、二人は飛び上がって出ていった。
パーリアはもぬけの殻の牢の前で、忌々しげに舌打ちした。
一度野に放たれた半魔を再び捕えるのは至難の業である。だが、そうは言っても、彼の身柄はどうしても押さえておかなくてはならない。ならばどうする? あの半魔は次にどう動く?
待っていればよいのだ、と答えは天啓のごとく閃いた。
奴にはそれしか道がない――。
老いた唇に笑みが浮かぶ。パーリアは上質な長衣を翻し、悠然と上階に戻った。
彼とは今宵の宴席で会えるだろう。だが、たとえ乗り込んできたところで、あの半魔に状況を覆すだけの切り札などありはしない。少しばかりの魔性を振りかざし、実力以上に大きく見せて、相打ちを狙うのがせいぜいであろう。対するパーリアは多数のヴェネツィア貴族の支持を取りまとめ、元老院と十人委員会の幹部も既に掌握している。ここまでくれば法さえパーリアの味方だった。
――ほんの少し、お顔を見せていただければ、今後のご令息の名誉と尊厳には、最大限の配慮をさせていただこう。
パーリア派の祝賀会とでも言うべき今夜の会に箔をつける為、そんな殺し文句でアデリーナ・バーチ・クッキアイオの出席を取り付けている。
駒として扱うには少々行動を予測できぬ女であり、また、生家たるバーチ家を敵に回すことは極力避けたかったが、面白いことに、あの半魔は義母たる彼女には弱いらしい。それならば、万一の時の盾代わりにはなるだろう。用途の限られる駒ではあるが、弱い駒でも無いよりはましだ。
かたや、あの半魔には何もない――何も!
彼を侮っているのではない。事実、そうなのだった。
パーリアは居室の書き物机の引き出しを開けた。
――持っていくか。
今夜、トゥリパーノ宮で何が起こっても、事故として扱われるだろう。今宵の招待客が皆パーリア派という訳ではなかったが、趨勢が決してしまえば誰もが口を閉ざすということを、長年の経験からパーリアは知っている。息子と孫を失ったアルジェント・クッキアイオは、今度こそ諦めて、もう一度花嫁を迎えるだろう。
ああ、そうだ……こんなに簡単なことだったのに、どうして今まで思いつかなかったのか。
「――今度こそ始末してくれよう」
人の世に入り込んでくる魔性を排除することは、血筋の正しいヴェネツィア貴族として、また、共和国への選ばれし奉仕者として、当然の責務だった。
§
「……気づかれたか」
赤と青の官服を着た、それ故に遠目からでも一目でそれと分かる十人委員会の兵たちが、人混みの中に姿を現し始めた。
「その割には数が少ない気がしますが」
「あんまり本気で追ってないんだろう。僕たちがトゥリパーノ宮に向かってるって知ってるのさ」
首を傾げるバウタの疑問に、ペスト医が肩をすくめて答える。
「さぞや歓待の準備を整えてくれていることだろう。ありがたくて涙が出そうだよ」
「旦那」
「大丈夫。それより、ここで捕まっても面倒だ」
レオはさっと周囲を確認すると、すばしこい下町の少年のように、他人の家の外階段からバルコニーに飛び移った。そのまま足場を伝って屋根に到達し、振り返って手を伸ばす。難なく彼を追ってきた身軽な助手の手をつかみ、彼を引っ張り上げた。
「屋根伝いに行くぞ。下を見るなよ」
「ワオ。屋根に上るのは初めてじゃないですが、夜ってのは初めてです」
レオとカルミネはしっかりと手をつないで走り出した。一年でこの季節が最も美しい、水の都の夜景を背負い、優美なペスト医とお供のバウタは、辺り一帯の館の中でも、ひときわ壮麗な屋根に向かって弾むように駆けてゆく。
「一人の時は絶対にやるなよ」
「旦那と一緒の時はいいんですか?」
「いいよ。僕と一緒なら、お前は絶対に落ちない」
「へえー」
「本当だ」
――落ちるかと思った……。
――お前を落としたりなんてしないよ。
「……絶対に、落とさない」
「別に疑ってなんかいませんや」
妙に大人びた、苦笑交じりのカルミネの声だった。
夜空を彩る花火のひとつひとつに照らされながら、カルミネは眩しげにレオを見やった。
「旦那って、やっぱりただの人ではないんですね」
「……」
その声音に含まれる感情を、レオは量りかねた。
「僕が怖いか」
カルミネは甘やかに笑って首を横に振った。
「ずっとおそばにいたいです」
――なっ……。なんでそんな返事になるの……⁉
ペスト医の仮面の中で、赤面したのはレオの方だった。
「へ、へえー、それはどういう意味。魂でもくれるのかい」
真っ赤に茹で上がった顔が、カルミネからは見えないのをいいことに、レオはそんな風に茶化してみせた。トゥリパーノ宮の屋根はもう目前で、カルミネはまっすぐに前を見据えてさらりと言った。
「欲しいならどうぞ。僕のすべてはあなたのものです」
ぐう、とペスト医の仮面の奥でレオが呻いた。
ああ、ここで飛んだら――。
助走をつけて踏み切った足は空を切り、ペスト医とバウタは短い空中散歩を経て、緩い傾斜のついた屋根の縁に着地する。
「アハ……ギリギリ」
「うん……」
――着いちゃった。
残念ながら、お喋りはここでお終いだった。




