89.謝肉祭のそぞろ歩き1
「さっきお前の許へ向かっている時に、小耳に挟んだんだけど、ヴィルジリオの快気祝いとやらを今晩派手にやるそうじゃないか」
「ああ……そうらしいですね」と、カルミネは不機嫌に頷いた。
ヴェネツィアの洗練された司法手続きの流れに一度乗せてしまえば、後は何も言わずとも、優秀な官僚たちが処刑までの道のりを粛々と整えてくれる。パーリアらは葡萄酒でも傾けながら、悠々とそれを待っていればいい。手続きを早める為の買収、あるいは脅迫などは別途必要かもしれないが、それとて尊き身の彼らが自ら行うことではなかった。
総督の逮捕は極秘事項で、知っている者はごく僅かだったが、それをさて置いても今夜の祝宴とは、随分と舐められたものである。彼らが自分たちの勝利を確信しているようで甚だ面白くない。
「丁度いい」
レオはそんなことには頓着しないらしく、悪魔のように機嫌よく微笑んだ。
「パーリアさんが出席しないなんてあり得ないから、役者は全員揃ってるだろう」
カルミネはふと、レオがすっきりと涼しげな顔をしていることに気づいた。
「旦那、ずっと囚われていたにしちゃあ、随分とお綺麗じゃありませんか」
「ここに来る前に運河で水浴びして、着替えてから来た。いいとこのお嬢さんのようなお前に嫌われたくないからね」
「暢気なもんですね。心配していたのが馬鹿らしくなってきました」
カルミネのぼやきにレオがふっと笑った。
「行こう」
いつもの優しい声がカルミネの耳をくすぐり、カルミネも「はい」と頷いた。
ひっそりとした牢獄から一歩外の世界に出れば、街は謝肉祭のシーズンである。誰も彼もが仮面の下に顔を隠し、往来を賑やかに行き交う。レオは必要に迫られて、早々に仮面屋に飛び込んだ。店主に勧められるまま、ペスト医の仮面を選ぶ。
「旦那、ペスト医好きですね」
「別に好きって訳じゃ……」
じっくり選ぶ時間さえあれば、レオとてもう少し無難なものにしたかったのだ。勧められた仮面は目元に凝った装飾が施されており、値段も桁が一つ違っていた。
「お似合いですよ」
「フン……」
カルミネの言葉はまんざら世辞でもなさそうだった。通常の白ではなく、黒を基調とした不気味な仮面は、目元の繊細な装飾が優美で、美しい魔性の君たるレオによく馴染んでいる。
「裏道から行くぞ」
レオとカルミネは大通りを避け、迷路のような小径に入った。
細い路地でも今宵は四方からちょっとした仮装を楽しむ善男善女が流れ込み、普段よりもごった返している。
「見つけたぞ!」
敵意のこもった低い声に、レオとカルミネはびくりと振り返った。
「カルロ・オラフェブレ……」
さんざめく仮面の波の向こうに立っているのは、冷たい細面の美男子だった。
かつては婚約者をレオに連れ去られ、最近ではカルミネに喧嘩を吹っ掛けられた因縁の没落貴族、カルロ・オラフェブレ。
「なっ、なんで、こんな人混みの中で、しかも仮面を被ってる僕を。それに、しばらく全然出くわさなかったのに、なんでよりにもよってこんな時に」
「旦那、それどころじゃありません。逃げましょう」
「丁度いい! この前の小僧も一緒か」
オラフェブレは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、じりじりと距離を詰めてくる。
「共に成敗してくれる! 我が偉大なるオ・ラ・フェブレ家の名にかけて……!」
今にも剣を抜いて襲い掛かってきそうなオラフェブレから、二人は阿吽の呼吸で踵を返した。
「あっ。またしても逃げるか!」
後ろから「卑怯者!」と罵られるが、知ったことではなかった。
人混みの中ではぐれぬよう、互いに伸ばした手が吸いつくようにつながれる。
「――この先で右曲がれ」
「運河ですよ!」
ぎょっとするカルミネに、レオは「いいから」と請け合った。
子鼠二匹の小賢しい背中が、オラフェブレの視線の先で、知らなければ通り過ぎてしまいそうな細い小径に吸い込まれる。
――小癪なッ。
オラフェブレは二人に続いて小径に飛び込み、一跨ぎで真冬の運河に落ちた。
「ヴィィィンチィィィー!」
呪詛のような雄叫びと、どぼんという派手な水音は、カルネヴァーレの花火が掻き消した。
「……行くぞ」
運河沿いの窪みにはりついていたレオがカルミネを促し、元来た道を戻る。
「こ……この野郎……ヴィンチ……た……助け……」
「偉大なるご先祖とやらに何とかしてもらえ」
珍しいレオの捨て台詞に、カルミネがぷっと噴き出した。
「風邪でも引かなきゃいいけど……」と、走りながらレオが独り言ちる。
「ご自分で落としておいて、お優しいことで」
レオがぐっと言葉に詰まった。
夜が更けてゆくにつれ、ヴェネツィアの街は賑やかさを増していった。
思いも寄らぬところに屋台が立ち、十字路では人形劇が繰り広げられている。
可愛いバウタとそぞろ歩きと洒落込んでおきながら、向かっているのが敵の巣窟とは、何とも興醒めなことだった。
「旦那……?」
「何でもない」
ペスト医がふいと嘴を背けると、カルミネは嘴に張り合うように唇を尖らせた。
「そういうの、言いっこなしですぜ」
「カルミネ」
彼の手を離したくなくて、レオは小さな手を一層握り込む。
「僕と交わした契約を憶えてる?」
「勿論ですよ。危なくなりそうだったら、僕は自分の身の安全を最優先にするんでしょ」
「そう」
――自分の身は自分で守れ。それができないならそばに置かない。
憶えていたか、とレオが噛みしめるように呟くと、カルミネは急に不安げな表情になった。
「ちゃんと守りますから、今更置いてくなんて言わないでくださいよ」
「連れていく」
「よ、よかった」
精緻な装飾に囲まれた仮面の目元の奥で、灰色の瞳が物憂く揺れた。
――ごめん。お前を連れていく。でも何かあれば、命に代えてもお前を守るから。
すっかり安心した様子のカルミネが、随分と無防備な近さでレオを覗き込んだ。
「フフッ。旦那って、本当に綺麗……。今宵のあなたは、まるで夜の貴公子のようです」
「それは僕っていうか、この仮面のことだよね?」
美しい装飾と、長い嘴を持つペスト医の仮面は、目の部分しか開いていない。
ふん……と怒った風でもなく、柔らかく微笑む半魔の若君と、ころころと楽しげに笑う小さなバウタは、今この瞬間だけを切り取ることができたなら、カルネヴァーレの夜を楽しむ恋人同士そのものだった。
それきり二人は口を閉ざした。
大人しく手を握らせたままのカルミネと二人、そぞろ歩きの仮面の間をやや性急にすり抜けて、夜の愛し子たる半魔の君は敵陣の真っ只中へ向かう。
古い友人を救う為に。




