88.総督宮殿の牢
貴人にとっては少々手狭であろうその部屋は、総督宮殿の内階段を上ったところにあった。
部屋には小さいとはいえ明り取り用の窓があり、寝台も清潔とまではいかないが、蚤だらけということもない。大罪を犯した身には破格の待遇であった。
「マリーノ……」
扉につけられた覗き穴からレオが呼びかけると、寝台に座っていたマリーノが驚いたように立ち上がった。
「レオ? どうやって――」
「僕もいます」
「――ああ」
気配を消してきたか、と言いかけたマリーノは、カルミネの言葉でそうではないと気づいたらしい。視界の外にいる見張りの存在を察し、何食わぬ顔で口を噤んだ。
レオは覗き穴にそっと指を乗せ、潤んだ目を伏せた。
「お金で、何とかなったよ……」
「まあ、ヴェネツィアはその辺、融通が利くからな」
この国では現金こそ正義。
総督宮殿の牢獄においては、非公式ながら、面会したい相手の身分による料金表も存在した。
「罪状が罪状ですから、長居は困ります。お早く」
金貨でポケットを重くした看守にせっつかれ、レオは物憂い顔をマリーノに向けた。
「国家反逆罪ってどういうこと?」
「生憎、私も初耳でな。聞くところによると、どうやら私は、ヴェネツィアの首席行政官の地位に飽き足らず、ヴェネツィアの王になろうとしたらしい」
「まさか」
レオはハッと笑う。あまりにも荒唐無稽な話だった。
「証人と証拠も揃っているそうだ」
嘘で塗り固められた外堀に、当事者の方は笑う気力もないようだった。
「お前が自由の身であるとは驚きだな。私はお前の力を利用してヴェネツィアの王たらんとし、その代償として、お前に女たちを好きに狩らせたと聞いているが」
「へぇ、そんな筋書きなの」
成程、これなら補佐官殿の愛する共和国は、魔獣問題のひとつも解決できぬ無能な国ではなく、権力に取り憑かれた総督と、彼が契約した忌まわしき魔物に蹂躙された、紛う方なき被害者ということになる。事件が解決すれば、しなやかなヴェネツィア経済はすぐに回復し、外貨と活気を取り戻すことだろう。すべては丸く収まって、諸悪の根源たるマリーノは処刑、レオは幽閉――させるものか、そんなこと。
「ひとつ、頼まれてほしいことがある」
「なあに」
何を今更、改まった口調で。
どうせ、さっさとここから出せとでも言うのだろう――と思って待っていると、マリーノは囁くような声で言った。
「いつの日か必ず、私の汚名をそそいでほしい」
「マリーノ? 何言って……」
彼の言葉の意味が分からず、レオはぽかんと彼の顔を見た。
「恐らく、一両日中に判決が下されるだろう。彼らは私の処刑をあまり先延ばしにしたくないはずだ」
「おかしい。早過ぎる」と、カルミネが悲鳴のような声を上げる。レオが覗き穴に縋りついた。
「嫌だよ、そんなこと言わないで。僕らが絶対にマリーノを助ける。だからお願い、気を強く持って待っていて」
レオは幼子のような強引さで、マリーノの「分かった」をねだった。
「ねえ!」
今日はまだ一度も、マリーノのあの艶やかな笑みを見ていない。いかにも彼らしい、あの不遜な笑みを。
「生の希望を持ったまま、サン・マルコの柱の間に立つことなど、私にはできぬ芸当だ。レオ、どうか約束してくれ。いつの日か必ず、私に着せられた無実の罪を晴らすと」
「……」
真剣な顔で懇願され、レオは言葉を失った。
マリーノは命を諦めている。
あのマリーノが。
――子を食わす為に娼婦となった。その選択を何ら恥じる気はないな。
某国大使に「赤毛の娼婦」と陰口を叩かれたと知った時も、マリーノはそう言って笑ったという。
ヴェネツィア市民の命を背負い、いつだって華やかに笑ってみせる。自信満々、傲岸不遜、そんな言葉しか似合わない彼が、足掻くことさえしないまま、自分の命はあっさり諦めるだなんて――これだからお貴族様というやつは!
「レオ、頼む」
「マリーノ……」
マリーノがようやく微笑んだ。
嫌だ。マリーノ。そんなのは――。
「――分かった」
レオは覗き穴に縋るのを止め、まどろむような灰色の目で、包み込むようにマリーノを見やった。
「約束する」
マリーノの無実の罪を晴らす。彼が処刑される前に。その為にはどんな手段も辞さない。
レオは挑むような目をマリーノに向けた。
でも――それで万事解決でしょう?
「……待ってて」
踵を返したレオの後ろで、カルミネが覗き穴に恭しく腰を折った。
「だ、そうです。マリーノ様、では後ほど」
そう言い捨てて、迷いのない足取りで主の後を追う。彼らの背後でマリーノが呆れたように呟いた。
「馬鹿め……」
マリーノ、聞こえてるんだけど……とレオが物憂く眉を寄せた。
マリーノがここから出てきたら、一杯一杯抱きしめてあげよう。生きて触れ合える体があるとマリーノが実感するまで何度でも。
看守に先導され、足早に牢を後にするレオに、カルミネが小声で訊ねた。
「旦那、何か策が? 僕たちはこれからどこへ?」
「トゥリパーノ宮さ、勿論」
レオはマリーノも顔負けの、妖艶な流し目をカルミネにくれた。




