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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第7章:ラ・ベッラ・エポカ

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88.総督宮殿の牢

 貴人にとっては少々手狭であろうその部屋は、総督宮殿の内階段を上ったところにあった。


 部屋には小さいとはいえ明り取り用の窓があり、寝台も清潔とまではいかないが、蚤だらけということもない。大罪を犯した身には破格の待遇であった。


「マリーノ……」


 扉につけられた覗き穴からレオが呼びかけると、寝台に座っていたマリーノが驚いたように立ち上がった。


「レオ? どうやって――」


「僕もいます」


「――ああ」


 気配を消してきたか、と言いかけたマリーノは、カルミネの言葉でそうではないと気づいたらしい。視界の外にいる見張りの存在を察し、何食わぬ顔で口を噤んだ。


 レオは覗き穴にそっと指を乗せ、潤んだ目を伏せた。


「お金で、何とかなったよ……」


「まあ、ヴェネツィアはその辺、融通が利くからな」


 この国では現金キャッシュこそ正義。


 総督宮殿の牢獄においては、非公式ながら、面会したい相手の身分による料金表も存在した。


「罪状が罪状ですから、長居は困ります。お早く」


 金貨でポケットを重くした看守にせっつかれ、レオは物憂い顔をマリーノに向けた。


「国家反逆罪ってどういうこと?」


「生憎、私も初耳でな。聞くところによると、どうやら私は、ヴェネツィアの首席行政官の地位に飽き足らず、ヴェネツィアの王になろうとしたらしい」


「まさか」


 レオはハッと笑う。あまりにも荒唐無稽な話だった。


「証人と証拠も揃っているそうだ」


 嘘で塗り固められた外堀に、当事者の方は笑う気力もないようだった。


「お前が自由の身であるとは驚きだな。私はお前の力を利用してヴェネツィアの王たらんとし、その代償として、お前に女たちを好きに狩らせたと聞いているが」


「へぇ、そんな筋書きなの」


 成程、これなら補佐官殿の愛する共和国セレニッシマは、魔獣問題のひとつも解決できぬ無能な国ではなく、権力に取り憑かれた総督と、彼が契約した忌まわしき魔物に蹂躙された、紛う方なき被害者ということになる。事件が解決すれば、しなやかなヴェネツィア経済はすぐに回復し、外貨と活気を取り戻すことだろう。すべては丸く収まって、諸悪の根源たるマリーノは処刑、レオは幽閉――させるものか、そんなこと。


「ひとつ、頼まれてほしいことがある」


「なあに」


 何を今更、改まった口調で。


 どうせ、さっさとここから出せとでも言うのだろう――と思って待っていると、マリーノは囁くような声で言った。


「いつの日か必ず、私の汚名をそそいでほしい」


「マリーノ? 何言って……」


 彼の言葉の意味が分からず、レオはぽかんと彼の顔を見た。


「恐らく、一両日中に判決が下されるだろう。彼らは私の処刑をあまり先延ばしにしたくないはずだ」


「おかしい。早過ぎる」と、カルミネが悲鳴のような声を上げる。レオが覗き穴に縋りついた。


「嫌だよ、そんなこと言わないで。僕らが絶対にマリーノを助ける。だからお願い、気を強く持って待っていて」


 レオは幼子のような強引さで、マリーノの「分かった(ヴァ・ベーネ)」をねだった。


「ねえ!」


 今日はまだ一度も、マリーノのあの艶やかな笑みを見ていない。いかにも彼らしい、あの不遜な笑みを。


「生の希望を持ったまま、サン・マルコの柱の間に立つことなど、私にはできぬ芸当だ。レオ、どうか約束してくれ。いつの日か必ず、私に着せられた無実の罪を晴らすと」


「……」


 真剣な顔で懇願され、レオは言葉を失った。


 マリーノは命を諦めている。


 あのマリーノが。


 ――子を食わす為に娼婦となった。その選択を何ら恥じる気はないな。


 某国大使に「赤毛の娼婦」と陰口を叩かれたと知った時も、マリーノはそう言って笑ったという。


 ヴェネツィア市民の命を背負い、いつだって華やかに笑ってみせる。自信満々、傲岸不遜、そんな言葉しか似合わない彼が、足掻くことさえしないまま、自分の命はあっさり諦めるだなんて――これだからお貴族様というやつは!


「レオ、頼む」


「マリーノ……」


 マリーノがようやく微笑んだ。


 嫌だ。マリーノ。そんなのは――。


「――分かった」


 レオは覗き穴に縋るのを止め、まどろむような灰色の目で、包み込むようにマリーノを見やった。


「約束する」


 マリーノの無実の罪を晴らす。彼が処刑される()に。その為にはどんな手段も辞さない。


 レオは挑むような目をマリーノに向けた。


 でも――それで万事解決でしょう?


「……待ってて」


 踵を返したレオの後ろで、カルミネが覗き穴に恭しく腰を折った。


「だ、そうです。マリーノ様、では後ほど」


 そう言い捨てて、迷いのない足取りで主の後を追う。彼らの背後でマリーノが呆れたように呟いた。


「馬鹿め……」


 マリーノ、聞こえてるんだけど……とレオが物憂く眉を寄せた。


 マリーノがここから出てきたら、一杯一杯抱きしめてあげよう。生きて触れ合える体があるとマリーノが実感するまで何度でも。


 看守に先導され、足早に牢を後にするレオに、カルミネが小声で訊ねた。


「旦那、何か策が? 僕たちはこれからどこへ?」


「トゥリパーノ宮さ、勿論」


 レオはマリーノも顔負けの、妖艶な流し目をカルミネにくれた。

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