87.カルミネができるまで4
「どうして……」
「シ。抜け出してきた」
たった数日会わなかっただけなのに、鼻にかかった甘い声が、こんなにも懐かしいなんて。
「旦那、お怪我は」
急いで少年の服を身に着けながら、ジェルソミーナは声を落とした。本当は今すぐ駆け寄りたいが、こんな恰好では出ていけない。
「ない。カルミネ、出てきてよ」
「だ、駄目ですッ。今着替えてるんです!」
「そう」
あまりにも必死の返事だったせいか、レオはそれ以上何も言わず、大人しく引き下がった。
どうしよう……男の子に着替えを無言で待たれている。
何か、会話を……!
「あっ、だっ、旦那、それより、どうやって抜け出したんですか?」
扉の向こうから暢気な答えが返ってきた。
「頼んだら開けてくれた」
「……」
随分端折った説明だった。
「――旦那ァ!」
「はいはい」
逃げ出したりしないから、この入り口を一瞬だけ開けてほしい――。
冷たい床に寝そべったまま、レオはそう懇願してみたという。
――ここは空気が薄くて。このままだと死んでしまうよ……。
物は試しで、いかにも苦しそうに喘いでみせると、牢番をしていた男二人は慌てて従った。
こう見えても、レオはクッキアイオの血を継ぐたった一人の嫡男である。
パーリア宮の牢で死なせてしまっては国家反逆罪待ったなし、「世話は最低限でよいが、決して死なせてはならぬ」と彼らがきつく言い含められていることは知っていた。
――ありがと……。随分楽になった。僕はしばらく眠るよ。
去り際にそう言い置いて、牢の中に気配を残せば首尾は上々、本体はこうしてカルミネの許に戻ってきたという訳だった。
「ふふっ……」
カルミネは帽子の縁にバウタをはめながら、口元をほころばせた。そんな手に引っ掛かるなんて、随分と魔に慣れない素人を配置したものだ。
「……お待たせしました」
扉を開け、レオがいる方に向かって三角帽子ごとぺこりと頭を下げる。恋人同士ではないから、再会の抱擁はなし。
レオが拗ねたように言った。
「……お前さ、見えてるだろ」
「さあ、どうでしょう」
実は見えている。何故、なんて知りようもないが。
「ここってお前の部屋?」
「い、いえ……ジェルソミーナ尼の」
カルミネは正直に告げた。どこからばれるか分からない嘘は、極力吐かぬ方がいい。
「ジェルソミーナの……?」
二人で出口に向かいながら、レオが物憂く眉を寄せた。
「あ、ええと、その、リリアーナ尼から隠れる時は、使ってよいと」
「ふうん」
苦し紛れの誤魔化しだったが、レオは「それなら」と納得したようだ。ジェルソミーナの乳母のアンナが折よく通りかかり、カルミネは「ちょいとお待ちを」とレオに小声で断ってからアンナに駆け寄った。
「アンナさん、ジャンニに連絡を取って『無事に戻られた』と伝えてください。それだけで通じますから。ディ・ミラーコリ教会に集結している皆さんにも伝えて、と」
ジェルソミーナがカルミネの恰好をしている時は、そばに誰もいなくても、念の為、他人行儀な話し方をすることになっている。こういう取り決めをしておいて本当に良かったと思う。アンナに「お嬢様」などと呼ばれているところを、気配こそ消しているものの、ばっちりそこにいるレオに聞かれたら洒落にならない。
アンナもお仕えするお嬢様にではなく、使い走りの少年に話しかけるように応えた。
「カルミネ、熱はもう下がったの?」
ハイ、とカルミネの声が上擦った。
「そ、その節はお世話になり、ありがとうございました。お陰様でこの通りです。では」
カルミネがレオを置いて逃げるように去っていく。
「お前、熱が……?」
追いついたレオに訊ねられ、カルミネは慌てて笑顔を作った。
「もう平気です。たっぷり眠って、スッキリしてまさぁ」
「嘘だったら承知しないぞ」
カルミネの首筋にレオが手を当て、肌の熱さを確かめる。
優しい手つきで触れてくるその手を、カルミネは振り払わなかった。
「ほら、熱なんてないでしょう」
「ん……」
レオが甘えるようにカルミネの肩にこてんと頭を預けた。
「でも、お前が僕を振り払わないなんておかしい。やっぱりまだ調子が悪いんじゃ……」
「振り払われたいんですか」
口ではそう言いながらも、カルミネはずっと首筋に留まっているレオの手を、振り払いもせずきゅっと握った。
「それより、旦那――」
ごちゃごちゃ言っている場合ではない。
「僕たちはどうやら、かなり窮地に陥ってるみたいです……」
彼に伝えなくてはならなかった。
大切な証人であるルカ・コントゥッティが敵の刃に斃れたこと。
古い友人が獄につながれてしまったことを。




