86.カルミネができるまで3
――レオ、今すぐ行く。待っていて。
あの雨の中の慟哭から二日。
冷たい雨と心労がたたり、本当に床についてしまったジェルソミーナは、久々にカルミネの姿に戻ろうとしていた。
――ヴィンチの旦那の居場所が分かった。
そんな一文から始まるジャンニからの短信を受け取った以上、寝込んでいる場合ではない。やはりと言うべきか、レオが囚われているのはパーリア宮だった。
サン・ポーロ男たちにはまだ知らせていないが、知られるのは時間の問題だとジャンニは記していた。ぐずぐずしている暇はない。徒に犠牲を出す前に、レオを奪い返してしまわなければ。
やり切れないことに、レオを連れ去ったのはロベルトだという。
ジャンニ曰く、「拳で吐かせた」ということだったが、彼はそんなもので口を割る人には見えなかった。
ジャンニが彼に何と言ったのかは知らない。だが、その結果、ロベルトは自ら告白したのだとジェルソミーナには思えた。
私は彼を許せるだろうか――。
悪いのは彼を利用し、言葉巧みに操った者たちだと頭では分かっている。それでも、レオが味わったはずの苦しみを思うと、殺しても飽き足りないと思ってしまう自分がいた。
レオは――とジェルソミーナは自嘲するように唇を歪めた。
レオならきっと許すだろう。そもそも最初から怒っていないかもしれない。
初めて出会った時から、彼はそういう人だった。
二人が初めて出会ったのは、レオの中では恐らくあの夏の日、キャピュレット家のご令嬢の駆落ち騒動があった日ということになっている。
だが、本当はもう少し幼い頃に、一度会っていた。
レオが忘れているなら幸いだ。一からやり直すことができるなら、迷わずそうしたいと願うくらい、ジェルソミーナの態度はひどいものだったのだから。
乳母のアンナの外出に、悪戯心を起こしてこっそりついていったものの、歩きにくい小径に戸惑い、あっという間にアンナを見失った。
壁と壁に挟まれた、薄暗く細い小径は迷路のようで、迷ったと気づいた時にはもう遅かった。
目立たぬよう羽織った、黒いマントの前をぎゅっと掻き合わせたことを憶えている。
その場から一歩も動けず震えていた時、まだ子供の優しい声がした。
「――どうしたの? 迷子?」
声の主はとろけるように甘い灰色の目をした、庶民の男の子だった。
「……」
貴族の娘が軽々しく、庶民の子供と口を利いてはいけない。
「どこに行きたいの?」
パツィエンツァ宮。でも、庶民の子供と喋る訳には……。
その子は気を悪くする風でもなく、考えるように首を傾げた。
「貴族のお姫様は、僕らと喋ってはいけないんだっけ。……ええと、僕はこれから、パツィエンツァ宮に行くんだけど」
えっ、私もそこに――。
「そこなら分かるんだね。じゃあ、ついておいで。大丈夫、振り返ったりしないから」
そう言うなり、彼は踵を返してゆっくりと歩き始めた。貴族の娘の足でもちゃんとついていけるように、明らかに気遣ってくれている。
ジェルソミーナは息を潜め、恥じ入るように首を垂れて、導く天使の後を追った。
年下と思しき少年の、華奢でしなやかな背中は、ジェルソミーナの目にはこの世の何よりも頼もしく映った。
彼について角を曲がると、見慣れた景色が目に入り、安堵のあまり目が潤んだ。
乳母のアンナはジェルソミーナがいないことに気づき、周囲を捜し回っていたらしい。ジェルソミーナを見つけたアンナが駆け寄ってきて、二人でひしと抱き合った後、ジェルソミーナは大泣きした。
ジェルソミーナの窮地を救ってくれたのは、その時はまだ名前も知らないレオだった。
――陽だまりにいる子猫みたいに可愛いのに、悪魔みたいにエグい手を打ってくるんだよ……。
――父上、そーゆーのお好きですもんね。
レオが父のチェス仲間で、兄とも親しいらしいということを、後にジェルソミーナは知った。
優しい灰色の目をした彼は、父とチェスをする為に、時折館にやってくる。
ジェルソミーナは館の中で彼の姿を見かけても、ただ息を殺して、遠くから彼を見つめることしかできなかった。
彼に合わせる顔などない。
助けてもらっても、感謝もしない高慢な貴族の娘。
レオにとってはいつものことだったのだろう。
ジェルソミーナは病み上がりの体を奮い立たせ、薄い下着の上に、女性らしい体の線を隠すお手製のベストをまとった。
学問や剣といった男子の領分もよく嗜むが、裁縫も得意である。というより、苦手なことが特にない。
初めてベストを作ってみた時、どれほど窮屈だろうかと恐る恐る手を通してみたところ、コルセットの数倍は楽だった。
――マリーノの寄越した助手だな。
カルミネとしてのレオとの初対面は、ほろ苦いものだった。
まさか私と気づいてくれないなんて……。
あのレオの目を欺けるほど、完璧に化けていたとは自分でも驚きだった。
ジェルソミーナだと名乗る機会は完全に失ってしまったが、これで良かったのだと今は思う。
パリでどれほど遊んできたのか、レオは随分な手練れに育っていた。
あの女たらし、隙あらば少年のカルミネにさえ甘い言葉を囁いてくる始末である。
――僕はジェルソミーナに心を捧げた時から、彼女ひとすじだ。
ジェルソミーナはフッと笑った。
カルミネを散々弄んでおいて、どの口が言うのか。
夜会の時だって、女装したカルミネが途中で邪魔をしなければ、きっと周りに侍らせていた令嬢たちと――。
ジェルソミーナはうつむき、決して伝えるつもりのない、本当の気持ちを口にした。
「レオ、私もあなたが好き……」
でもレオ、私はあなたが仮初めに留まる、花のひとつになるのは嫌。
それならいっそカルミネの姿で、ずっとあなたのそばにいる。
真実は差し出せないけれど、それ以外はすべてあげる。
ねえ、レオ――。
「……カルミネ?」
「レ……旦那⁉」
その時、誰より憎たらしいけれど、誰より大切な人の声が扉の向こうから聞こえてきた。




