85.カルミネができるまで2
それ以上走れなくなったところでジェルソミーナは足を止め、石柱の陰で乱れた呼吸を整えた。
淑女の仮面であるモレッタを取り出し、顔を覆う。
黒い楕円の仮面の下、ジェルソミーナは誰でもない若い令嬢という記号になって、流しのゴンドラを呼んだ。
寄ってきたゴンドラに品よく乗り込み、モレッタをずらして行き先を告げる。
正面玄関からの帰宅は悪手であり、ジェルソミーナはパツィエンツァ宮近くの小運河で降りた。
陸の玄関からこっそりと自室に帰りつくと、身の回りのものを手早くまとめる。まるで以前からそう計画していたように、体は勝手に動いていた。
「お嬢様、どこに行かれるのです」
「アンナ……」
ジェルソミーナはびくりと肩を揺らし、恐る恐る振り返った。
このやり取りは何度目だろう。
ジェルソミーナの乳母だった人であり、今でも最も近しい使用人である人に、こっそり抜け出そうとしているところを見つかってしまうのは。
「お願い、行かせて」
「お供いたします」
「駄目よ」
ちょっとしたお出掛けなどではない。ジェルソミーナはもう戻らないつもりなのに。
ジェルソミーナは言下に断ったが、よく見ればアンナはすっかり外出の支度を整えている。虫の知らせでもあったのだろうか。第二の母とも言うべき人の第六感にジェルソミーナは舌を巻いた。
絶対についていく、絶対に連れていかないの押し問答の末、ジェルソミーナが折れた。老いてゆくアンナの面倒をみるつもりで、一緒に行くことにする。
「どちらへ?」
「そうねぇ……。どこか本土の女子修道院へ」
これだけの醜聞を引き起こしたからには、もう二度と縁談の話もあるまい。
ヴェネツィア本島から遠く離れた、気候のいい場所にある修道院で、静かな余生を過ごすことができればそれで満足だった。
できれば運河の底冷えとは無縁の、穏やかな冬がある場所がいい。
アンナは呆れ顔を見せつつも、「もう日も暮れます。ひとまずは私の縁者のいる修道院に身を寄せましょう」とゴンドラを手配した。
火点し頃のヴェネツィアは、沈みゆく太陽の残滓と、運河の上を行き来するゴンドラの灯りが水面に揺蕩い、夢のように美しい。
さほど長く揺られることなくゴンドラを降り、アンナにつれられて到着したのは、いずれ劣らぬ名家の娘たちを集めた、その名も高きサンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院だった。
「アンナ、ここは駄目よ……」
「お嬢様の身元をお引き受けくださる方が、この奥の部屋でお待ちです」
その方がアンナの縁者なのだろうか。
ヴェネツィアから遠く離れた、気候のいい場所にある修道院を紹介してくださるといいのだけど……。
心の中でそう願いつつ、ジェルソミーナは大人しくアンナの後をついていった。
「お連れいたしました」
「お入り」
「さあ」とアンナに促され、部屋に入ったジェルソミーナは、中にいる人物の顔を見て息をのんだ。
「閣下――」
そこにいたのは、第百二十二代ヴェネツィア総督にして、サンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院を懐に抱く至上の父、マリーノ・フェリエラ閣下だった。
いつ見ても悪魔と見紛うほど美しい。
「アンナ、よくやってくれた」
マリーノはアンナを労って下がらせると、身を屈めて挨拶するジェルソミーナにおっとりと微笑んだ。
「楽にしてくれ。久し振りだな、ジェルソミーナ」
「はい」
とは言ったものの、兄のマルコはともかく、ジェルソミーナは彼とはほとんど面識がない。何故この方が、という疑問で一杯のジェルソミーナに優しく椅子を勧め、マリーノは自身も差し向かいに腰を下ろしてざっくばらんに切り出した。
「別に遠くに行かなくてもいいだろう。どうせならここに身を寄せて、この私を助けてくれないか」
――助ける? 総督閣下を? 私が? どうやって?
ジェルソミーナの頭の中の疑問符は増えるばかりである。
「丁度、そなたのような者を探していた。入り組んだヴェネツィアの路地とヴェネツィア貴族社会に通じ、時折庶民の子に化けて、街を歩いたりなぞする者を」
「閣下、何故それを……」
嫁ごうかという年齢になっても、ジェルソミーナは隙あらばジェルソミーノとなって、ヴェネツィアの路地を闊歩していた。
レオから厳しい評価を受け、より一層研鑽を積んだ今となっては、身のこなしも喋り方も、以前とは比較にならないほど市井の少年になり切れていると自分では思う。
マリーノはごつごつとした男らしい手指を優雅に組み、心持ち前に身を屈めた。
「マリーノと呼んでほしい。今日の私はヴェネツィア総督ではなく、レオナルド・ヴィンチの古い友人としてここにいるのだから」
「レオの……?」
その瞬間、何重にも鍵をかけ、心の奥底に閉じ込めていた薔薇色が一気にあふれ出した。
濃緑の瞳が夏の日を受けた海のごとくきらめいて、白い頬はどんな頬紅にも出せぬ、瑞々しく淡い赤の一刷けに染まった。
「そう、レオの」
と、天鵞絨の声が楽しげにその名を繰り返した。
「彼がそろそろ帰ってくる。至らぬことも多いだろうから、頼りになる助手をつけてやりたい」
マリーノは人の心の深淵をくすぐるような笑みを浮かべ、ジェルソミーナを見た。
「どうだろう。私の目の前にいる少年など、適任だと思うのだが」
彼の言わんとするところを、ジェルソミーナは正確に理解した。
「やってくれるか」
「はい」
この時、「悪魔より悪魔」とレオに評される美しい男は、神の花嫁たらんとしたうら若き乙女を、神の鼻先で掻っ攫ったのだった。
レオの帰郷はこの半年ほど後のことである。
デッレ・ヴェルジニ修道院に身を寄せたジェルソミーナは、この度の心労による病を得、床につきがちとなった――ということになった。
時を同じくして、さる高貴な方の推薦を携え、利発な使い走りが修道院の門を叩いたのは、まったくの偶然であった。




