84.カルミネができるまで1
――今の、キャピュレット家のお嬢さん?
あの夏の日のことを、今でもはっきりと憶えている。
光あふれる海の前に佇む、猫のようにしなやかな背中。
早鐘を打つ心臓を必死で押さえつけながら、世馴れた庶民の子の振りをして、あなたに声をかけた。
神様。どうかもう一度、あの子と言葉を交わす機会を得られますように――。
この数年間、ずっと願ってきたことが突然叶えられて、私は舞い上がっていた。
ねえ、レオ。
まるで時が止まったように、あなたがあんまりじっと見つめるものだから。
――そうだよ、駆け落ちだ。
あなたが口を開くまで、私は生きた心地がしなかった。
貴族の娘だと気づかれたのだと。
――どうしたの? 迷子?
あなたと初めて出会った、あの時のように。
§
「ジェルソミーナ……」
ヴィターレ・マルカートの喉から押し殺した声が漏れた。
彼の美しい婚約者、ジェルソミーナ・パツィエンツァの顔は蒼白で、今しがたヴィターレの口から放たれた言葉が、彼女の耳に届いてしまったことは明らかだった。
ヴィターレの遊び仲間たちは皆、先程とは打って変わって気まずげな表情を浮かべている。
この状況を楽しんでいる者は一人もいなかった。
何よりヴィターレ自身が婚約者に負けず劣らず顔色を失っていた。
「ミーナ……」
感情の読めない濃緑の瞳が、ヴィターレをじっと見つめている。
ヴィターレとジェルソミーナは幼馴染の間柄だった。
正確には、互いの兄同士が。
添え物のような弟と妹は、添え物同士、ある種の連帯感を持って、それなりに仲良くなった。
両家の共通の知人を介し、ジェルソミーナと婚姻を結びたいと打診した時、彼女の兄、マルコは泡を食ってヴィターレを呼び出した。
ジェルソミーナとは互いに知らぬ仲ではないが、周囲から見てそこまで親しい仲でもない。真意を量りかねたのだろう。
――妹の評判は知っているだろう?
マルコの問いは単刀直入だった。
――知っている。でも、マルコだって分かってるんだろう? あんなもの、彼女に袖にされた旧家の坊ちゃんたちの遠吠えだ。
ヴィターレがはっきり言ってやると、マルコは驚いたような顔をした。
――これでも幼馴染だ。ミーナの人柄はよく分かってる。僕はむしろ、あの噂に感謝したいくらいだね。お陰でライバルが減ったから。
――だが、社交界で評判のよくない娘を娶っても、マルカート家には何の益も……。
ヴィターレはマルコの言葉を笑い飛ばした。
――社交界の評判ほど不確かで、移ろいやすいものはないさ。
ジェルソミーナと違って本気で鼻持ちならないけれど、家柄だけは一流のご令嬢が「むやみやたらと男に媚びを売らぬ、高潔な淑女」などと持ち上げられている。誰の本心でもない、そんな虚しい評判にどれほどの価値があるというのか。
ヴィターレは真剣な表情で言った。
――両親もミーナの人柄はよく分かってる。どうか、彼女との結婚を認めてほしい。
マルコはしばらく言葉を失っていたが、やがて深々と安堵のため息を吐いて、ヴィターレを抱擁した。
――どうか、幸せにしてやってくれ……。
――勿論だ。
§
――だが、社交界で評判のよくない娘を娶っても、マルカート家には何の益も……。
カーテンの陰でこっそりと聞いていたジェルソミーナは、兄の率直過ぎる物言いに眉をひそめた。
分かっている。兄はマルカート家に迷惑をかけることを望んでいないし、ジェルソミーナが嫁ぎ先で疎まれ、つらい思いをすることも避けたいのだろう。
ヴィターレはそんな兄の懸念を笑い飛ばし、改めてジェルソミーナとの結婚を願い出た。
彼がそんなことを考えていたなんて夢にも思わなかったが、どうやら本気で言っているようだ。
これは喜ぶべきところなのか、ジェルソミーナにはよく分からなかった。自分はきっと、こういうところが駄目なのだろう。
ヴィターレが帰っていった後、ジェルソミーナは「盗み聞きとはお行儀の悪い」と、最初から気づいていたらしいマルコにこってりと絞られた。
だが、当人としても大いに気になるところだったのだ。社交界で評判のよくない娘を娶る真意とは? と。
数日後、ヴィターレがジェルソミーナを内々に訪問した。
――ジェルソミーナ・パツィエンツァ、一生大切にする。
真面目な顔でヴィターレが跪き、手の甲に口づけた時、ジェルソミーナは彼の申し出を受けると決めた。
彼を支え、愛そうと。
ジェルソミーナはこの日、幼い初恋と、薔薇色の朝焼けを心の奥底の深いところに閉じ込めた。
二度と開かぬよう、何重にも鍵をかけて。
「ミーナ、聞いてく……」
近寄ろうとするヴィターレを目で制し、ジェルソミーナは婚約指輪を引き抜いた。
これは正当な理由になろう。名誉を汚されたのだから――。
驚愕の表情を浮かべる婚約者の胸を狙い、過たず指輪を投げる。相手がどれほど不器用でも、ちゃんと受け取れる位置に向かって、正確に。
ヴィターレの注意が指輪に行った隙に、ジェルソミーナは身を翻した。
「ジェルソミーナ!」
ヴィターレが悲痛な声を上げるが、ジェルソミーナは振り返らなかった。
自分が何に背を向け、何を失おうとしているのか、よく分かっていた。
でも、もう戻れない。
夕暮れ時の柱廊を、令嬢らしからぬ速さで駆け抜けるジェルソミーナの姿は、光と影を交互に浴び、現れては消え、まるでヴェネツィアが気紛れに見せる夢のよう。
走り続けるジェルソミーナの息が上がり、心臓が早鐘を打つ。
それでも前へ。
光差す海へ――。




