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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第7章:ラ・ベッラ・エポカ

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84.カルミネができるまで1



 ――今の、キャピュレット家のお嬢さん?


 あの夏の日のことを、今でもはっきりと憶えている。


 光あふれる海の前に佇む、猫のようにしなやかな背中。


 早鐘を打つ心臓を必死で押さえつけながら、世馴れた庶民の子の振りをして、あなたに声をかけた。


 神様。どうかもう一度、あの子と言葉を交わす機会を得られますように――。


 この数年間、ずっと願ってきたことが突然叶えられて、私は舞い上がっていた。


 ねえ、レオ。


 まるで時が止まったように、あなたがあんまりじっと見つめるものだから。


 ――そうだよ、駆け落ちだ。


 あなたが口を開くまで、私は生きた心地がしなかった。


 貴族の娘だと気づかれたのだと。


 ――どうしたの? 迷子?


 あなたと初めて出会った、あの時のように。




§




「ジェルソミーナ……」


 ヴィターレ・マルカートの喉から押し殺した声が漏れた。


 彼の美しい婚約者、ジェルソミーナ・パツィエンツァの顔は蒼白で、今しがたヴィターレの口から放たれた言葉が、彼女の耳に届いてしまったことは明らかだった。


 ヴィターレの遊び仲間たちは皆、先程とは打って変わって気まずげな表情を浮かべている。


 この状況を楽しんでいる者は一人もいなかった。


 何よりヴィターレ自身が婚約者に負けず劣らず顔色を失っていた。


「ミーナ……」


 感情の読めない濃緑の瞳が、ヴィターレをじっと見つめている。


 ヴィターレとジェルソミーナは幼馴染の間柄だった。


 正確には、互いの兄同士が。


 添え物のような弟と妹は、添え物同士、ある種の連帯感を持って、それなりに仲良くなった。


 両家の共通の知人を介し、ジェルソミーナと婚姻を結びたいと打診した時、彼女の兄、マルコは泡を食ってヴィターレを呼び出した。


 ジェルソミーナとは互いに知らぬ仲ではないが、周囲から見てそこまで親しい仲でもない。真意を量りかねたのだろう。


 ――妹の評判は知っているだろう?


 マルコの問いは単刀直入だった。


 ――知っている。でも、マルコだって分かってるんだろう? あんなもの、彼女に袖にされた旧家の坊ちゃんたちの遠吠えだ。


 ヴィターレがはっきり言ってやると、マルコは驚いたような顔をした。


 ――これでも幼馴染だ。ミーナの人柄はよく分かってる。僕はむしろ、あの噂に感謝したいくらいだね。お陰でライバルが減ったから。


 ――だが、社交界で評判のよくない娘を娶っても、マルカート家には何の益も……。


 ヴィターレはマルコの言葉を笑い飛ばした。


 ――社交界の評判ほど不確かで、移ろいやすいものはないさ。


 ジェルソミーナと違って本気で鼻持ちならないけれど、家柄だけは一流のご令嬢が「むやみやたらと男に媚びを売らぬ、高潔な淑女」などと持ち上げられている。誰の本心でもない、そんな虚しい評判にどれほどの価値があるというのか。


 ヴィターレは真剣な表情で言った。


 ――両親もミーナの人柄はよく分かってる。どうか、彼女との結婚を認めてほしい。


 マルコはしばらく言葉を失っていたが、やがて深々と安堵のため息を吐いて、ヴィターレを抱擁した。


 ――どうか、幸せにしてやってくれ……。


 ――勿論だ。




§




 ――だが、社交界で評判のよくない娘を娶っても、マルカート家には何の益も……。


 カーテンの陰でこっそりと聞いていたジェルソミーナは、兄の率直過ぎる物言いに眉をひそめた。


 分かっている。兄はマルカート家に迷惑をかけることを望んでいないし、ジェルソミーナが嫁ぎ先で疎まれ、つらい思いをすることも避けたいのだろう。


 ヴィターレはそんな兄の懸念を笑い飛ばし、改めてジェルソミーナとの結婚を願い出た。


 彼がそんなことを考えていたなんて夢にも思わなかったが、どうやら本気で言っているようだ。


 これは喜ぶべきところなのか、ジェルソミーナにはよく分からなかった。自分はきっと、こういうところが駄目なのだろう。


 ヴィターレが帰っていった後、ジェルソミーナは「盗み聞きとはお行儀の悪い」と、最初から気づいていたらしいマルコにこってりと絞られた。


 だが、当人としても大いに気になるところだったのだ。社交界で評判のよくない娘を娶る真意とは? と。


 数日後、ヴィターレがジェルソミーナを内々に訪問した。


 ――ジェルソミーナ・パツィエンツァ、一生大切にする。


 真面目な顔でヴィターレが跪き、手の甲に口づけた時、ジェルソミーナは彼の申し出を受けると決めた。


 彼を支え、愛そうと。


 ジェルソミーナはこの日、幼い初恋と、薔薇色の朝焼けを心の奥底の深いところに閉じ込めた。


 二度と開かぬよう、何重にも鍵をかけて。


「ミーナ、聞いてく……」


 近寄ろうとするヴィターレを目で制し、ジェルソミーナは婚約指輪を引き抜いた。


 これは正当な理由になろう。名誉を汚されたのだから――。


 驚愕の表情を浮かべる婚約者の胸を狙い、あやまたず指輪を投げる。相手がどれほど不器用でも、ちゃんと受け取れる位置に向かって、正確に。


 ヴィターレの注意が指輪に行った隙に、ジェルソミーナは身を翻した。


「ジェルソミーナ!」


 ヴィターレが悲痛な声を上げるが、ジェルソミーナは振り返らなかった。


 自分が何に背を向け、何を失おうとしているのか、よく分かっていた。


 でも、もう戻れない。


 夕暮れ時の柱廊を、令嬢らしからぬ速さで駆け抜けるジェルソミーナの姿は、光と影を交互に浴び、現れては消え、まるでヴェネツィアが気紛れに見せる夢のよう。


 走り続けるジェルソミーナの息が上がり、心臓が早鐘を打つ。


 それでも前へ。


 光差す海へ――。

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