83.愚かしさの代償3
『今夜七時、XXXXに来られたし。M』
『今夜十時、イル・ロトンドに来られたし。M』
――うーん……。「来られたし」はマルコとレオの間柄では、ちょっと硬い気がするな。
――そうですか? 兄なら割と誰彼構わず使いそうですが。あ、では、「にて待つ」はどうでしょう。簡素な言い方が兄の好みです。
『今夜十時、イル・ロトンドにて待つ。M』
さらさらとそう書いてみせると、マリーノは会心の笑みを浮かべた。
――よし。文面はこれで。
たかだかレオを勘違いさせる為だけに、随分な念の入れようだった。
多忙を極めるマリーノの予定はその後も二転三転し、最終的に場所と時間が確定するまで、カルミネは何度か書き直した。
『今宵九時、恋人橋にて待つ。M』
そんな恋文めいた一文を、戯れに書いてみたことは、マリーノにもレオにも絶対に秘密だった。
下書きの紙片はすべて、処分もせずに引き出しの中に仕舞っていた。
カルミネにあてがわれた、敷地の外れの掘っ立て小屋の、鍵など掛からない机の引き出しに。
「要らない。私たちは終わったんだ。そいつとよろしくやってくれ」
「ベルナルディーノ!」
用済みになった女には、ほんの少しも優しくする気はないらしい。ベルナルディーノは突然の雨に舌打ちしながら、カルミネが苦心して入ってきた扉を無造作に開け、何の未練もなく出ていった。
呆然と立ち尽くすカルミネの前で、リリアーナ尼は雨に濡れるのも構わず泣き続けている。
すぐ近くの枝から羽ばたきの音がして、カルミネははっと我に返った。
何かに背を押されるように、カルミネの足が地面を蹴った。
「カル……!」
目を見開くリリアーナ尼に、カルミネは飛びかかっていた。
「貴族の娘が聞いて呆れる」
色を失った唇から、雨よりも冷たい声が出た。
「他人の部屋を漁るとは」
眼差しで人を射殺せるなら、とっくに彼女を殺していただろう。リリアーナ尼は目にはっきりと恐怖の色を浮かべ、声を震わせた。
「カルミネ、何をする気……⁉」
「分からない?」
カルミネは人形のようにかくんと首を傾けた。彼女の胸倉をつかんで拳を振り上げている。この後何をする気かなんて、火を見るより明らかだと思うのだが。
「お、お前、私にこんなことをして……!」
「それはこちらの台詞だ」
握りしめた拳に力が入った。
「自分が何をしたか、分かっているのか……」
寒さと恐怖からか、リリアーナ尼は目を見開いたまま必死で首を横に振る。
カルミネは彼女を乱暴に引き寄せた。
「どれほど愚かなことをしたか、分かっているのか!」
「ひ、ひどい、そんな、言い方――」
どれほど愚かなことをしたか――勿論、カルミネには嫌というほど分かっていた。
「お前は本当に、本当の馬鹿だ……!」
レオを騙しておびき寄せるのに、あの手紙が使われた。
燃やすことも、ちぎることもせず、カルミネが不用意に取っておいたあの手紙が。
「救いようのない馬鹿だ!」
分かっている。
この拳を向けるべきは、本当は誰なのか。
カルミネは握りしめた拳を下ろし、リリアーナ尼を突き飛ばした。
「もし彼に何かあったら、絶対に許さない」
リリアーナ尼は哀れっぽく泣きながら、捨て台詞も吐かず一目散に逃げていった。
カルミネはがくりと地面に崩れ落ちた。
「あ……あ……」
マントの中の人形をマント越しに抱きしめて、カルミネは自分の愚かしさを呪った。
リリアーナ尼とは、以前から妙によく出くわすと思っていた。
――分からない? 彼女はお前が好きなんだよ。
レオはきっと、あの時何かを感じ取ったのだ。リリアーナ尼がカルミネの身辺を探り、私物を漁っていたとしたら、レオにしか分からぬ気配や匂いとやらが、彼女に移っていたとしてもおかしくない。
「ああ……あ……」
なんと愚かだったのだろう。あの時あんなに感情的にならなければ、欠片と欠片をつなぎ合わせて、もっと早く気づくことができたかもしれないのに。
――可愛い女の子なら、何をやっても許すんでしょう。
醜い気持ちを抱いたせいで。
「あああ……ッ」
あんな手紙の下書きを、訳もなく取っておいたせいで。
「本当に、どうしようもない馬鹿だ……!」
重い鈍色の空の下、雨と涙は一筋に混ざり、冷たい地面を濡らし続ける。
「許さない、許さない……!」
もしレオに何かあったら、絶対に許さない――。
勿論、自分自身をだった。
救いようもなく愚かなジェルソミーナ・パツィエンツァ――自分自身を。
第6章:人とはなんと愚かな生き物か(完)




