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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第6章:人とはなんと愚かな生き物か

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83.愚かしさの代償3

『今夜七時、XXXXに来られたし。M』


『今夜十時、イル・ロトンドに来られたし。M』


 ――うーん……。「来られたし」はマルコとレオの間柄では、ちょっと硬い気がするな。


 ――そうですか? 兄なら割と誰彼構わず使いそうですが。あ、では、「にて待つ」はどうでしょう。簡素な言い方が兄の好みです。


『今夜十時、イル・ロトンドにて待つ。M』


 さらさらとそう書いてみせると、マリーノは会心の笑みを浮かべた。


 ――よし。文面はこれで。


 たかだかレオを勘違いさせる為だけに、随分な念の入れようだった。


 多忙を極めるマリーノの予定はその後も二転三転し、最終的に場所と時間が確定するまで、カルミネは何度か書き直した。


『今宵九時、恋人橋にて待つ。M』


 そんな恋文めいた一文を、戯れに書いてみたことは、マリーノにもレオにも絶対に秘密だった。


 下書きの紙片はすべて、処分もせずに引き出しの中に仕舞っていた。


 カルミネにあてがわれた、敷地の外れの掘っ立て小屋の、鍵など掛からない机の引き出しに。


「要らない。私たちは終わったんだ。そいつとよろしくやってくれ」


「ベルナルディーノ!」


 用済みになった女には、ほんの少しも優しくする気はないらしい。ベルナルディーノは突然の雨に舌打ちしながら、カルミネが苦心して入ってきた扉を無造作に開け、何の未練もなく出ていった。


 呆然と立ち尽くすカルミネの前で、リリアーナ尼は雨に濡れるのも構わず泣き続けている。


 すぐ近くの枝から羽ばたきの音がして、カルミネははっと我に返った。


 何かに背を押されるように、カルミネの足が地面を蹴った。


「カル……!」


 目を見開くリリアーナ尼に、カルミネは飛びかかっていた。


「貴族の娘が聞いて呆れる」


 色を失った唇から、雨よりも冷たい声が出た。


「他人の部屋を漁るとは」


 眼差しで人を射殺せるなら、とっくに彼女を殺していただろう。リリアーナ尼は目にはっきりと恐怖の色を浮かべ、声を震わせた。


「カルミネ、何をする気……⁉」


「分からない?」


 カルミネは人形のようにかくんと首を傾けた。彼女の胸倉をつかんで拳を振り上げている。この後何をする気かなんて、火を見るより明らかだと思うのだが。


「お、お前、私にこんなことをして……!」


「それはこちらの台詞だ」


 握りしめた拳に力が入った。


「自分が何をしたか、分かっているのか……」


 寒さと恐怖からか、リリアーナ尼は目を見開いたまま必死で首を横に振る。


 カルミネは彼女を乱暴に引き寄せた。


「どれほど愚かなことをしたか、分かっているのか!」


「ひ、ひどい、そんな、言い方――」


 どれほど愚かなことをしたか――勿論、カルミネには嫌というほど分かっていた。


「お前は本当に、本当の馬鹿だ……!」


 レオを騙しておびき寄せるのに、あの手紙が使われた。


 燃やすことも、ちぎることもせず、カルミネが不用意に取っておいたあの手紙が。


「救いようのない馬鹿だ!」


 分かっている。


 この拳を向けるべきは、本当は誰なのか。


 カルミネは握りしめた拳を下ろし、リリアーナ尼を突き飛ばした。


「もし彼に何かあったら、絶対に許さない」


 リリアーナ尼は哀れっぽく泣きながら、捨て台詞も吐かず一目散に逃げていった。


 カルミネはがくりと地面に崩れ落ちた。


「あ……あ……」


 マントの中の人形をマント越しに抱きしめて、カルミネは自分の愚かしさを呪った。


 リリアーナ尼とは、以前から妙によく出くわすと思っていた。


 ――分からない? 彼女はお前が好きなんだよ。


 レオはきっと、あの時何かを感じ取ったのだ。リリアーナ尼がカルミネの身辺を探り、私物を漁っていたとしたら、レオにしか分からぬ気配や匂いとやらが、彼女に移っていたとしてもおかしくない。


「ああ……あ……」


 なんと愚かだったのだろう。あの時あんなに感情的にならなければ、欠片と欠片をつなぎ合わせて、もっと早く気づくことができたかもしれないのに。


 ――可愛い女の子なら、何をやっても許すんでしょう。


 醜い気持ちを抱いたせいで。


「あああ……ッ」


 あんな手紙の下書きを、訳もなく取っておいたせいで。


「本当に、どうしようもない馬鹿だ……!」


 重い鈍色の空の下、雨と涙は一筋に混ざり、冷たい地面を濡らし続ける。


「許さない、許さない……!」


 もしレオに何かあったら、絶対に許さない――。


 勿論、自分自身をだった。


 救いようもなく愚かなジェルソミーナ・パツィエンツァ――自分自身を。

第6章:人とはなんと愚かな生き物か(完)

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