82.愚かしさの代償2
「では、それまでここで待機ですね」
ゴンドラ漕ぎか漁師か、随分と逞しい上腕を頼もしげに見ながら、カルミネが不敵に応じた。
ここに集まっているサン・ポーロ男たちは、実行犯を見つけ次第、レオの居場所を吐かせて奪還に向かうつもりだろう。敵も当然、素直にレオを引き渡す気はないだろうから荒事は必至である。
カルミネは気合を入れて前を見据えた。
レオ、もう少しだけ待っていて。あなたを奪い返すまで、何人でもこの手で斬ってやる――。
荒ぶるカルミネの肩をジャコモがぽんと気軽に叩いた。
「言っとくけど、カル君は連れてってやれねえよ?」
「何故です⁉」
むしろ先陣を切る気満々だったカルミネは、この世の終わりのような悲痛な叫び声を上げた。
「いや、そりゃそうだろう」
「僕が足手まといだと? 言っておきますが、僕は彼のマルコ・パツィエンツァから剣の指南を――」
「そんなこと言ってんじゃねえよ。分かれよぉ」
「嫌です! 何を分かれと!」
物分かりのいい振りをして、留守番をするなど死んでも嫌だった。
ジャコモはハンと笑って言った。
「いいか。もしレオが自力で抜け出してきたら、あいつが真っ先に向かうのはカル君のとこだろ」
え……?
その可能性をまったく考えていなかったカルミネは、ぽかんとした顔でジャコモを見上げた。
ジャコモはバウタ人形に気安く「なあ?」と話しかけ、
「――ほれ」
人形をカルミネの胸に押しつけた。
「それはカル君に預けとく。レオが迷わないように」
「……」
押しつけられた人形を、カルミネが無意識にぎゅっと抱きしめた。
「分かったらとっとと帰れ」
「あっ、ちょっと……」
ジャコモは有無を言わさず、カルミネの背を出口へと押してゆく。
「お小姓君、じき雨が降るぞ。帰るなら早く帰んな」
「お小姓じゃなくてカルミネです。レオナルド・ヴィンチ殿の助手の!」
名乗ることが精一杯の抵抗だというように、一段と声を張り上げるカルミネに、大人たちは豪快に笑って手を振った。
「ルチオは漁師だからな。天気を読み違うことはない。ほれ帰った帰った」
「――分かりましたよ! 皆さんがそこまでおっしゃるなら!」
捨て台詞を吐いて、カルミネは教会を飛び出した。もしレオがデッレ・ヴェルジニ修道院に向かっているなら、カルミネは絶対に先に戻ってレオを待っていなくてはならない。こんなもの、カルミネを巻き込まない為の方便だという気がしないでもないが、「レオならばあるいは」という思いが抑えられなかった。
「待って! 乗ります」
大運河沿いを少し走ったところで、カルミネは丁度出ようとしていた渡し舟に飛び乗った。レオを見つけるまでは帰らないと決めて来たから、エリオには先に帰ってもらってしまっている。
細いトラゲットの上で、目の前の少女がカルミネを見て、くすくすと忍び笑いを漏らした。バウタ姿のカルミネが、バウタ人形を持っているのが可笑しいらしい。
バウタの下の生身の頬が熱を帯びた。
レオときたら、何故こんなものを持っていたのか……。
運河の上は肌を刺す寒さで、カルミネは人形を懐に入れ、マントの前を掻き合わせた。この後雨が降るのなら、きっと限りなく雪に近い、冷たい雨になる。
ちらり、と対岸のパーリア宮を振り返った。
レオはあそこにいるだろうか……。
波音に紛れ、壮麗なファサードがゆっくりと遠ざかってゆく。
カルミネはぶんぶんと頭を振り、前に向き直った。
駄目だ。乗り込むにしても、もっと確証を得てからだ。
前にいる少女が空を見上げているのにつられ、カルミネも顔を上に向けた。さっきまで薄曇りだった空は、いつの間にか重たい鈍色になっている。本当に一雨ありそうだった。急いで帰った方がいいだろう。
トラゲットが対岸に到着すると、カルミネは軽やかに縁を蹴って岸に飛び移った。こんなことができるのは少年の恰好をしている時だけだ。薄暗い小径を走っているうちに、小さな雫が一粒頬に落ちた。
大変大変。早く帰らなくちゃ――。
デッレ・ヴェルジニ修道院の裏門の、優美な鉄細工の門扉に手を掛けようとして、カルミネははじかれたように身を翻した。
門を入ってすぐのところに、カルミネの宿敵、リリアーナ尼と、彼女のご自慢の恋人がいる。
うへぇ……。本当によく来る男だ。
名前は確か、ベルナルディーノと言っていたか。家名は知らない。ヴィルジリオ・トゥリパーノとご同類の、中途半端な美形である。
カルミネは音を立てぬようゆっくりと門扉を開け、身を屈めたままそっと中に入った。恋人たちの雰囲気は遠目にも険悪で、通りすがりにどんな目に遭うか分かったものではない。カルミネは庭の木々に引っかかれながら、こっそりと自室に向かった。湿り始めた土が、うまい具合にカルミネの靴音を消してくれる。
カルミネが二人のそばまで来た時、リリアーナ尼が哀れっぽい涙声を上げた。
「ベルナルディーノ、あの子は私にベタ惚れなのよ! 私が頼めばいつだって、お父様から若君への、秘密の手紙を見せてくれるんだから!」
――マリーノ様からレオへの秘密の手紙?
たった今、自分の耳が聞いた言葉を、カルミネはすぐに理解することができなかった。
「今度は何をすればいい? 何でも頼んであげるから、ねえ!」
いつしか長い筋を引き始めた、冷たい雨に打たれながら、リリアーナ尼が恋人の腕に縋る。
彼女の言っていることで、カルミネに心当たりがあるのはひとつだけだった。
――レオはマルコの筆跡を知ってるかもしれないからなぁ……。上手く似せて書いてくれ、妹君。
あの時、マリーノはそう言って、実に悪い顔で微笑んだのだ。




