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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第6章:人とはなんと愚かな生き物か

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82.愚かしさの代償2

「では、それまでここで待機ですね」


 ゴンドラ漕ぎか漁師か、随分と逞しい上腕を頼もしげに見ながら、カルミネが不敵に応じた。


 ここに集まっているサン・ポーロ男たちは、実行犯を見つけ次第、レオの居場所を吐かせて奪還に向かうつもりだろう。敵も当然、素直にレオを引き渡す気はないだろうから荒事は必至である。


 カルミネは気合を入れて前を見据えた。


 レオ、もう少しだけ待っていて。あなたを奪い返すまで、何人でもこの手で斬ってやる――。


 荒ぶるカルミネの肩をジャコモがぽんと気軽に叩いた。


「言っとくけど、カル君は連れてってやれねえよ?」


「何故です⁉」


 むしろ先陣を切る気満々だったカルミネは、この世の終わりのような悲痛な叫び声を上げた。


「いや、そりゃそうだろう」


「僕が足手まといだと? 言っておきますが、僕はのマルコ・パツィエンツァから剣の指南を――」


「そんなこと言ってんじゃねえよ。分かれよぉ」


「嫌です! 何を分かれと!」


 物分かりのいい振りをして、留守番をするなど死んでも嫌だった。


 ジャコモはハンと笑って言った。


「いいか。もしレオが自力で抜け出してきたら、あいつが真っ先に向かうのはカル君のとこだろ」


 え……?


 その可能性をまったく考えていなかったカルミネは、ぽかんとした顔でジャコモを見上げた。


 ジャコモはバウタ人形に気安く「なあ?」と話しかけ、


「――ほれ」


 人形をカルミネの胸に押しつけた。


「それはカル君に預けとく。レオが迷わないように」


「……」


 押しつけられた人形を、カルミネが無意識にぎゅっと抱きしめた。


「分かったらとっとと帰れ」


「あっ、ちょっと……」


 ジャコモは有無を言わさず、カルミネの背を出口へと押してゆく。


「お小姓君、じき雨が降るぞ。帰るなら早く帰んな」


「お小姓じゃなくてカルミネです。レオナルド・ヴィンチ殿の助手の!」


 名乗ることが精一杯の抵抗だというように、一段と声を張り上げるカルミネに、大人たちは豪快に笑って手を振った。


「ルチオは漁師だからな。天気を読み違うことはない。ほれ帰った帰った」


「――分かりましたよ! 皆さんがそこまでおっしゃるなら!」


 捨て台詞を吐いて、カルミネは教会を飛び出した。もしレオがデッレ・ヴェルジニ修道院に向かっているなら、カルミネは絶対に先に戻ってレオを待っていなくてはならない。こんなもの、カルミネを巻き込まない為の方便だという気がしないでもないが、「レオならばあるいは」という思いが抑えられなかった。


「待って! 乗ります」


 大運河カナル・グランデ沿いを少し走ったところで、カルミネは丁度出ようとしていた渡し舟(トラゲット)に飛び乗った。レオを見つけるまでは帰らないと決めて来たから、エリオには先に帰ってもらってしまっている。


 細いトラゲットの上で、目の前の少女がカルミネを見て、くすくすと忍び笑いを漏らした。バウタ姿のカルミネが、バウタ人形を持っているのが可笑しいらしい。


 バウタの下の生身の頬が熱を帯びた。


 レオときたら、何故こんなものを持っていたのか……。


 運河の上は肌を刺す寒さで、カルミネは人形を懐に入れ、マントの前を掻き合わせた。この後雨が降るのなら、きっと限りなく雪に近い、冷たい雨になる。


 ちらり、と対岸のパーリア宮を振り返った。


 レオはあそこにいるだろうか……。


 波音に紛れ、壮麗なファサードがゆっくりと遠ざかってゆく。


 カルミネはぶんぶんと頭を振り、前に向き直った。


 駄目だ。乗り込むにしても、もっと確証を得てからだ。


 前にいる少女が空を見上げているのにつられ、カルミネも顔を上に向けた。さっきまで薄曇りだった空は、いつの間にか重たい鈍色になっている。本当に一雨ありそうだった。急いで帰った方がいいだろう。


 トラゲットが対岸に到着すると、カルミネは軽やかに縁を蹴って岸に飛び移った。こんなことができるのは少年の恰好をしている時だけだ。薄暗い小径を走っているうちに、小さな雫が一粒頬に落ちた。


 大変大変。早く帰らなくちゃ――。


 デッレ・ヴェルジニ修道院の裏門の、優美な鉄細工の門扉に手を掛けようとして、カルミネははじかれたように身を翻した。


 門を入ってすぐのところに、カルミネの宿敵、リリアーナ尼と、彼女のご自慢の恋人がいる。


 うへぇ……。本当によく来る男だ。


 名前は確か、ベルナルディーノと言っていたか。家名は知らない。ヴィルジリオ・トゥリパーノとご同類の、中途半端な美形である。


 カルミネは音を立てぬようゆっくりと門扉を開け、身を屈めたままそっと中に入った。恋人たちの雰囲気は遠目にも険悪で、通りすがりにどんな目に遭うか分かったものではない。カルミネは庭の木々に引っかかれながら、こっそりと自室に向かった。湿り始めた土が、うまい具合にカルミネの靴音を消してくれる。


 カルミネが二人のそばまで来た時、リリアーナ尼が哀れっぽい涙声を上げた。


「ベルナルディーノ、あの子は私にベタ惚れなのよ! 私が頼めばいつだって、お父様から若君への、秘密の手紙を見せてくれるんだから!」


 ――マリーノ様からレオへの秘密の手紙?


 たった今、自分の耳が聞いた言葉を、カルミネはすぐに理解することができなかった。


「今度は何をすればいい? 何でも頼んであげるから、ねえ!」


 いつしか長い筋を引き始めた、冷たい雨に打たれながら、リリアーナ尼が恋人の腕に縋る。


 彼女の言っていることで、カルミネに心当たりがあるのはひとつだけだった。


 ――レオはマルコの筆跡を知ってるかもしれないからなぁ……。上手く似せて書いてくれ、妹君・・


 あの時、マリーノはそう言って、実に悪い顔で微笑んだのだ。

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