81.愚かしさの代償1
小さくも愛らしい、サンティッシモ・カプレット・ディ・ミラーコリ教会に急ぎ駆けつけたカルミネは、サン・ポーロ区民有志たちの熱気に満ちた背中を掻き分け、人の輪の中に勢いよく飛び込んだ。
「あ、カル君……。来てくれたの……」
中央にはバウタ人形を手にしたジャコモがゆらりと立っている。
「お父さん! 旦那が拐かされたって本当ですか!」
嘘であってくれと願いながら訊ねるが、ジャコモは苦しげに、だがはっきりと頷いた。
「これが、ここに落ちてた」
「……」
よく分からないが、動かぬ証拠とばかりにジャコモが掲げるバウタ人形を、カルミネは食い入るように見つめる。
――あの子は……?
――レオのお小姓だよ……。
――えっ。もしかして、レオの為にお貴族様と決闘したっていう、例の?
――女の子みたいに可愛いじゃないか。
カルミネの背後で、男たちがひそひそと囁き合っていた。
人形が落ちていたという床に目を落とすと、踏み潰されたバイコリの欠片が散らばっている。
カルミネが問いかけるようにジャコモに視線を戻すと、ジャコモは再び重々しく頷いた。
「そうですか……」
誰も何も説明してくれないが、これらはレオがいなくなる前に彼が持っていたものなのだろう。
「レオ……」
主の名を呼ぶカルミネの声が震えた。呼び方を間違っているということに気づく余裕もない。
ああ、レオ――。
さぞ苦しかったことだろう。彼が自分から聖域に足を踏み入れるとは考えられなかった。理由があって――恐らくは何かを懇願され、断りきれずに中に入ったのだ。
魔物の血を受けた身でありながら、レオはこちらがはらはらするほど純粋で人が好かった。誘拐者たちは卑怯にも彼のそんな性質を利用して、まんまとここへ連れ込んだに違いない。
「よくもこんな真似を」
「ああ」
ジャコモが疲れた様子で頷いた。彼もレオが聖域を苦手とすることは知っているらしい。
「すぐにでも兄と――」
そう言いかけ、カルミネは悔しげに口を噤んだ。すぐにでも兄と連絡を取りたいところだったが、折悪しく彼は今、ルカ・コントゥッティの護送中である。あちらはあちらで気の抜けない任務だろうから――。
「カル君!」
膝から崩れ落ちそうになるカルミネを、ジャコモがバウタ人形を持っていない方の手で支えた。
――タイミングが良過ぎる。
コントゥッティの護送を知り、敵が一気に仕掛けてきたのだとしたら。
「カル君、ヤバい状況なのか」
「……」
答えられないカルミネの、その沈黙が答えのようなものだった。もしカルミネの読みが当たっていたら、こちらの被害はレオの誘拐だけでは済まない。兄の一行は今、十中八九、敵の襲撃を受けているだろう。彼らは無事に総督宮殿へたどり着けるのだろうか。兄はコントゥッティを最後まで守り切れるのか。
レオとコントゥッティ、この二人を押さえられたら、あっという間にこちらの詰みだ。
「そうか……」
無言でうなだれるカルミネを、ジャコモが苦しげに見下ろした。
「さすがに俺も、レオがその辺のごろつきに攫われたとは思ってねえよ。でも、なあ、カル君」
両手にバウタ人形を抱えているような恰好のジャコモが、生身の方にぽつりと訊ねた。
「そいつはレオを殺す気だろうか」
「何だと!」
「許せねえ!」
教会はいきり立つ男たちの怒号で包まれた。彼らの刺すような視線がカルミネに集中する。
「……殺すなら、とっくにここで殺しています」
彼らはレオを生かしておく。その為に連れ去ったのだ。レオの仕業に見せかけた罪でレオを縛り、一生幽閉する為に。
コントゥッティが亡き者にされ、マリーノが総督位を追われてしまえば、レオを助ける道はなかった。パーリアの息のかかった者たちが、レオの言い分をまともに聞くはずがない。
茶番のような欠席裁判を経て、生かさず殺さず、ただクッキアイオの血統を存続させる為だけに、存在を許される未来が彼を待っているだろう。
「お小姓君、十三番目様のお力で、何とかならないのか!」
「難しいでしょう。クッキアイオ家は人の業に干渉しません」
法治国たるヴェネツィアの、法と元老院の決定には偉大なるアルジェント・クッキアイオでさえ異議を差し挟むことは許されなかった。元よりクッキアイオ家は人の領域に関わることを厳に制限されている。
だが、そんな未来、カルミネは到底受け入れる気はなかった。
「実行犯たちの目星はついているんですか」
「まだだ。この辺は昼間でも修道士くらいしか通らねえから、何かを見たって奴もいなくって」
「ふん……」
実行犯たちがここを選んだ理由が分かった。彼らにサン・ポーロの土地勘があることも。
「とは言ってもお小姓君、サン・ポーロで起こったことが、俺たちの耳に入らない訳がねえ。じきに分かるさ」




