80.敗者の駒は哀れ
目障りな半魔を捕えたとの報告を受け、ニコロ・パーリアは速やかに次の一手を指した。
「――何者だ」
薄暗い裏路地で、マルコ・パツィエンツァの誰何に答える者はいない。
人目を避けるようにデッレ・ヴェルジニ修道院を出発し、人通りの少ない小径をあえて選んで総督宮殿へと向かっていた彼の一行は、逃げ場のない狭い裏路地で、剣呑な雰囲気を帯びた男たちに取り囲まれた。
敵陣の王を追い詰める為に、パーリアが取らねばならない駒は二つ。一つは優秀なロベルト・エズィレ調査官が捕縛し、今やパーリア宮の秘密の客人として、半地下の牢に転がっている。
もう一つの目障りな駒――ルカ・コントゥッティにはここでご退場願う予定だった。
「死にたくなければ、その男を引き渡せ」
「お前たちこそ、死にたくなければ引け」
ルカ・コントゥッティを背に庇い、マルコが応酬する。
無駄で無意味な抵抗だった。パーリアが差し向けたのはイタリア本土から呼び寄せた剣客で、いかなマルコ・パツィエンツァとて敵う相手ではない。それが分からぬ彼ではないだろうに。若い者には命を粗末にせず、賢く生き永らえてほしいものだった。半魔嫌いではあるが、中立の立場を崩さぬマルコ・パツィエンツァは誠実で、なかなかに見どころがある。いずれ我が懐に入れば強力な駒となってくれよう。
我が懐の息子よ、くれぐれも愚かな選択をせぬように――。
遥かな高みから吉報を待つ、パーリアの豪奢な居室とはまさに天と地ほどの差がある裏路地で、駒を狙うルークと守るナイトは互いに一歩も引かず睨み合った。
触れれば切れるほどの殺気が、海霧のごとく重く揺らめいて辺りに満ちる。
刺客が引き連れている男たちは、マルコの一行を囲んだまま、決して闇雲に襲ってこようとしなかった。よく統制が取れている。彼らの狙いがルカ・コントゥッティただ一人であることは明白だった。
マルコは刺客と目を合わせたまま、低い声で呼びかけた。
「腕を惜しまれよ」
「既に犬の身なれば」
引く気はないということだ。予想された答えであり、マルコは落ち着いて周囲に視線を走らせた。
マルコの計画では、そろそろ援軍が到着するはすだった。
特に信頼のおける調査官たちだけで編成した、秘密の援軍が。
敵の襲撃は織り込み済みである。
デッレ・ヴェルジニ修道院を出立する直前、マルコは敵襲の可能性があることと、秘密裡に用意している援軍と共に一味を前後から挟み撃ちにし、あわよくば生け捕る予定であることを同行する部下たちに告げていた。
あともう少しだけ持ちこたえれば、援軍が来る……。
恐慌をきたしたルカ・コントゥッティがマルコを押しのけ、前に躍り出たのはその時だった。
「助けてくれ! あんたたちの言う通りに証言する! だから、どうか命だけは……!」
「愚か者!」
ずっと張り詰めていた神経が限界を迎えたか、慎重なコントゥッティらしからぬ振る舞いに、マルコの反応が一瞬遅れた。マルコは再び前に出ようとするが間に合わない。コントゥッティの腹から血しぶきが散った。
「コントゥッティ!」
血反吐を吐きながら地面にくずおれるコントゥッティを抱きかかえ、マルコが彼の名を叫んだ。
「死ぬな! 医者を呼べ! 早く!」
噴き出した血の量はすさまじく、あっという間に地面に血溜まりができた。手応えがあったのか、一味はコントゥッティの絶命を見届けもせず別々の路地に素早く散ってゆく。迷路のような裏路地に敵と味方の硬い靴音が入り乱れ、繰り返し何度もコントゥッティを呼ぶマルコの絶叫を掻き消した。
濡れた地面を蹴り、援軍が路地の先に慌ただしく姿を見せた。コントゥッティが斬られてから、アヴェ・マリアを一回唱えるほどの暇もない、短い間である。
「そんな……」
援軍としてたった今到着したばかりのジャンニは、目の前の光景に言葉を失った。絶対に間に合うはずだったのに、何故――。
「医者を! 早く……!」
自らの手も顔も鮮血の赤に染め、マルコは未だ諦めていなかった。
「コントゥッティ、頑張れ……」
傷口を押さえ、なおも止血を試みるマルコの手をジャンニがつかんだ。
「パツィエンツァ殿、もう――」
マルコが呆然とジャンニを見上げた。
ジャンニは悲痛な面持ちで首を振る。
公的にはルカ・コントゥッティはたった今身柄を拘束され、総督宮殿へと護送されるところだった。いかなる調書も未だ作成されておらず、本人からの聞き取りも何一つ行われていない。
コントゥッティが誰に何を喋っていたとしても、それらは彼の死と共に、泡沫のごとく儚く消え失せた。
さあ、チェックメイト!
知らせを聞いたパーリアの歓喜や如何に。
パーリアは一刻も時を無駄にしなかった。ものものしい一団を引き連れて意気揚々と総督執務室へと向かう。言うまでもないが、ルカ・コントゥッティの口を封じた者はすなわち、魔獣事件の首謀者である。それ以外の者に、彼を消すどんな理由があろう。ならばその罪を背負うのは当然、本件における逮捕者ということになる。
「――総督閣下」
麗しき首席行政官に課す罪の数を、薔薇の一輪でも足すように一つ増やし、ニコロ・パーリアは総督執務室へ足を踏み入れた。
「あなたを逮捕します」
執務机で書類に目を落としていた第百二十二代ヴェネツィア総督、マリーノ・フェリエラが顔を上げた。
マリーノは彼を見下ろすニコロ・パーリアと、その後ろにずらりと並ぶ、調査官及び衛兵たちを興味深げに眺めた。
「そうか」
彼は嫣然と微笑んだ。パーリアも認めるところではあるが、マリーノ・フェリエラは頭の悪い男ではない。「何の罪状で」といちいち訊ねることもなかった。
彼はただ、こう言っただけだった。
「私は負けたのだな」
その通り――話が早いのは、得難き彼の美点である。
マリーノは軽く頷くと、誰に促されずとも静かに立ち上がった。潔い敗者。敗北を受け入れ、無駄に足掻くこともしないから、醜態を晒すこともない。思えば、この男もそれなりに善戦したと言えるだろう。こちらの派閥も分かっているだけで数名、あの短期間に切り崩された。ルカ・コントゥッティを先んじて押さえたのも彼である。だが、パーリアの知略、人脈、人生経験には一歩及ばなかった。
パーリアは慈父のごとき笑みを浮かべ、厳かに告げた。
「では、ご同行願おう」
――討ち取ったり。
マリーノ・フェリエラはこれより総督宮殿の牢に入る。国家反逆罪を犯した大罪人として、処刑されるその日まで。




