78.人とはなんと愚かな生き物か1
「――レオナルド・ヴィンチ様?」
後ろから呼びかけられ、はっと我に返った。
「そうだ。何か用?」
振り返ると、いかにも下町っ子という感じの、如才なさそうな少年が立っている。
誰だろう。知り合いだっけ……。
記憶をたどるレオの目の前で、少年の唇がすっと息を吸い、機械仕掛けのように動いた。
「今すぐカプレット広場に来られたし――M」
あ、とレオが身じろぎした。
これはマルコからの伝言だ。
少し堅苦しい口調がそれっぽいし、そもそも別のMなら絶対に人目のないところを指定する。
人形とバイコリの包みを抱え直し、もたもたと硬貨を探るレオの前で、少年は礼儀正しく待っていた。
――何かあったんだろうか。
慎重な敵を追い詰める秘密の捜査は大詰めで、デッレ・ヴェルジニ修道院に匿っている大事な証人、ルカ・コントゥッティの保護と調書作成、トゥリパーノ家の使用人、ダンテ何某への工作と、マルコは気楽なレオと違って、裏の仕事だけでも目が回るほど忙しいはずだった。そんな時期に人目も憚らず、「今すぐ」レオと会わなくてはならないような、どんな事情ができたというのか。
広場に向かうレオの歩みは、自然と早足になった。
赤銅色のカプレット橋を渡り、一足飛びにカプレット広場に出る。広場と言うより小広場と言った方がしっくりくるような、小ぢんまりとした落ち着きのある広場には、午後のこの時間帯に行き交う人影もなく、マルコらしき人物の姿も見当たらない。目を凝らしても、広場の隅を二人連れの修道士が静かに歩いているくらいだった。
このまま一か所に留まるか、ぐるりと一周してみるか、レオが逡巡していると、
「若君……」
「ロベルト」
驚いたように声をかけてきたのは、ロベルト・エズィレ調査官だった。
リーアの一件以来、ずっと会う機会はなかったが、少しの間に随分とやつれたように見える。
「ロベルト、リーアのことは……」
「どうぞ何もおっしゃらず」
ロベルトは囁くような小声でレオを遮った。
「あなたのことを色々と言う者もおりますが、私は信じています」
「ロベルト……」
かける言葉も見つからないレオに、ロベルトはぎこちなく微笑んだ。
微笑むことさえつらいだろうに……。
レオはいたたまれず、ロベルトから目を逸らした。
「ロベルト、僕にできることがあれば……」
「若君、そんな。ああ、でも、もしよろしければ」
と、ロベルトは遠慮がちに申し出た。
「リーアの為に、一緒に祈っていただけませんか」
ロベルトが控えめに指し示す先には、サンティッシモ・カプレット・ディ・ミラーコリ教会の、十字架を頂く尖塔が見えた。
「勿論」
神の家などでき得る限り足を踏み入れたくなかったし、マルコのことも気がかりだったが、この申し出を断ることは人としてできない。
噛みしめるように微笑むロベルトに笑みを返し、レオは重い足取りでロベルトの後をついていった。
う……。
祝福された場所にそっと足を差し入れると、その瞬間から目に見えぬ鎖がレオの体を探り始めた。
大丈夫、少しの間だけなら――。
礼拝堂のベンチにロベルトと並んで腰かけ、敬虔な信徒よろしく神妙にうなだれる。
――リーア、安らかに……。
聖域が苦手というだけで、死者を悼む気持ちがない訳ではない。こうすることでリーアの魂が少しでも救われるなら、煩わしい鎖など少しくらい我慢できた。
神様、願わくはリーアの魂に安息のあらんことを。どうか――。
「――リーアはすぐ下の弟、メルクリオを本当に可愛がっていて……」
しばらく無言でそうしているうちに、ロベルトが問わず語りにリーアの思い出を語り始めた。
忙しい母や姉たちに代わって、リーアがまるで小さな母のように、メルクリオの面倒を見ていたこと。
お小言を言う時と、一緒になって悪さをする時の顔を使い分けるから、メルクリオが時々「ズルい!」と反旗を翻していたこと。
「それでも、二人はまるで、猫の子みたいにいつもじゃれ合って」
生きているリーアが目の前にいるかのように、ロベルトが微笑む。
「本当に、仲の良い姉弟でした」
「そう……」
ゆっくりとした口調で、途切れることなくリーアの思い出を語り続けるロベルトを、レオは少し潤み始めた灰色の瞳で、包み込むように見やる。
「ロベルトは……優しいお兄ちゃんだね……」
息が苦しい――。
この頃には、体を覆う無数の鎖が、レオの喉を這い回り始めていた。




