77.すべての始まりの夜のこと3
「ん……」
やがて、落ち着きを取り戻したレオが、気だるげに顔を上げた。
「それで、その後どうなったの……?」
少し眠そうな声で、子供のように続きをせがむ。
「……お前、本っ当に何も憶えてない?」
「だからさ、僕、赤ちゃんだったでしょ?」
「それはそうなんだけどさぁ……」
ジャコモは弱り切った顔で、苦手な説明を再開した。
「真っ黒い蝶々の数は、あっという間に増えて……」
滴り落ちる黒が女の体を覆い尽くしても、女の体の上にいるソレは平然としていた。
うーん……?
ジャコモは調査官たちの様子をこっそり窺うが、彼らは女を「魔物」と罵り、即席の魔法円の中で押し合いへし合いしているものの、誰一人として「なあ、あそこに赤ん坊いねえ?」と言う者はいない。
――さっきから妙にアンニュイな奴が、あそこでもそもそしてんだけど……。
あれの存在に気づいているのは、どうやらジャコモだけらしかった。
どうしよう、と思いつつ、ジャコモは静かに後ずさる。
その時、女の体の上で悠々としていたそれが、「逃げるのか」とでも言うように、とろりとジャコモを見た。
――ああ、もう!
その瞳の色は、あまりにも見慣れたフランチェスコの灰色だった。
ジャコモは何かに突き動かされるように、禍々しい黒の上で、ぴくりとも動かぬフランチェスコに駆け寄った。
「フランチェスコ‼ どうして、どうしてこんなことにぃぃ~!」
「うっわ酒くさ。おい、どこから入った!」
友の遺体に取りすがるジャコモを、調査官の一人が魔法円から出てきて迷惑そうに引きはがす。
「出てけ、酔っ払い!」
「――フン」
邪険に部屋から追い出され、ジャコモはふらつく足で路地に入った。
「ほれ、こっち来いよ」
当然のような顔をしてジャコモの肩に乗っている赤ん坊を下ろし、懐の中にくるむ。
どうしよう……。連れてきちゃった……。
激しく波打つ心臓と、得体のしれない赤ん坊を抱え、ジャコモは急ぎ家路についた――。
「……っていう感じ」
語り終えたジャコモがしみじみと言った。
「お前とは最初から、奇跡の連携が取れた」
「ふうん……? 悪いけど、本当に何も思い出せないや」
最初の記憶は、絵の具の染みがついた台の上に、ごろりと置かれたこと。
――どうしよう、いや、育てるしかねえ。俺が。
途方に暮れたような男の顔が可笑しくて、キャッと笑ってやったら、渋い美男子の顔が他愛もなく崩れ、それから――涙でぐちゃぐちゃになった。
「……お前、やっぱり憶えてるだろ」
「なんにも憶えてない」
だってあの時、それまでの記憶を手放して、ただの赤ん坊になったから。
「ふん。まあいいけど……」
と、ジャコモはあまり納得もしていなかったが、それ以上追及もしなかった。
「俺が知ってることはこれで全部だ。後のことは知らない」
「十分だ。ありがと、父さん」
レオは父の背に手を回し、心を込めて抱擁した。
「一番知りたかったことだった」
「……」
努めて穏やかに言ったつもりだったが、父は何か感じるところがあったらしい。
「お前、なんか怒ってるだろ」
「怒ってないさ」
父親の勘とでもいうのか、説明は下手だが、こういうところは鋭い。
バウタ人形を手に、レオは素っ気なく立ち上がった。
「あんまりお邪魔してもいけないし、そろそろ行くよ」
「はいはい。また来いよ」
店先に戻ると、パスクアーレが籠の中ですやすやと眠っていた。あら……とレオが籠の中を覗き込んでいると、サビーナが小さな包みを差し出してくる。
「ティーノのおかみさんからです」
「ファウスティーナから? なんで僕がここにいるって……」
「そんなもん、お前がここに来た瞬間から、サン・ポーロ中が知ってんだよ」
ジャコモが悪童のようにレオを小突く。
「たった五年のパリ暮らしで、もうヴェネツィアの狭さを忘れたか」
「アハッ、ちょっと、父さん止めてよ……」
「若君のお好きなバイコリだそうですよ」
「わあ、ありがと」
身をよじってジャコモの腕から逃げていたレオが、嬉しそうに目を輝かせた。
ダ・ティーノ独自の、ほんのりとレモンが香る厚めのバイコリ。カルミネもこれがいたく気に入って、初めて食べさせてやった時、感激しながらティーノにレシピを聞いていた。修道院でも作りたいとか何とか、尼僧みたいなことを言うなぁと思っていたら、途中から「ジェルソミーナ尼はこういうことがお好きですから、喜ばれるでしょう」とジェルソミーナの為であるかのような言い方になっていた。
「じゃ、またね」と、二人に手を振り、レオはほくほくと父の店を後にした。
バウタ人形を片手に、歩きながらバイコリを齧っていると、子供の頃に戻った気分になる。
あの頃は、このままここで大人になると思っていた。
どこかの工房の見習いになって、いずれ一人前になって。
多分誰かと結婚して、子供も生まれて。
いくつになってもティーノの店に皆で入り浸って。
そうやって、慎ましく、でも賑やかに、パオロたちと一緒に年を取っていくのだと。




