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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第6章:人とはなんと愚かな生き物か

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77.すべての始まりの夜のこと3

「ん……」


 やがて、落ち着きを取り戻したレオが、気だるげに顔を上げた。


「それで、その後どうなったの……?」


 少し眠そうな声で、子供のように続きをせがむ。


「……お前、本っ当に何も憶えてない?」


「だからさ、僕、赤ちゃんだったでしょ?」


「それはそうなんだけどさぁ……」


 ジャコモは弱り切った顔で、苦手な説明を再開した。


「真っ黒い蝶々の数は、あっという間に増えて……」


 滴り落ちる黒が女の体を覆い尽くしても、女の体の上にいるソレ(・・)は平然としていた。


 うーん……?


 ジャコモは調査官たちの様子をこっそり窺うが、彼らは女を「魔物」と罵り、即席の魔法円の中で押し合いへし合いしているものの、誰一人として「なあ、あそこに赤ん坊いねえ?」と言う者はいない。


 ――さっきから妙にアンニュイな奴が、あそこでもそもそしてんだけど……。


 あれの存在に気づいているのは、どうやらジャコモだけらしかった。


 どうしよう、と思いつつ、ジャコモは静かに後ずさる。


 その時、女の体の上で悠々としていたそれが、「逃げるのか」とでも言うように、とろりとジャコモを見た。


 ――ああ、もう!


 その瞳の色は、あまりにも見慣れたフランチェスコの灰色だった。


 ジャコモは何かに突き動かされるように、禍々しい黒の上で、ぴくりとも動かぬフランチェスコに駆け寄った。


「フランチェスコ‼ どうして、どうしてこんなことにぃぃ~!」


「うっわ酒くさ。おい、どこから入った!」


 友の遺体に取りすがるジャコモを、調査官の一人が魔法円から出てきて迷惑そうに引きはがす。


「出てけ、酔っ払い!」


「――フン」


 邪険に部屋から追い出され、ジャコモはふらつく足で路地に入った。


「ほれ、こっち来いよ」


 当然のような顔をしてジャコモの肩に乗っている赤ん坊を下ろし、懐の中にくるむ。


 どうしよう……。連れてきちゃった……。


 激しく波打つ心臓と、得体のしれない赤ん坊を抱え、ジャコモは急ぎ家路についた――。


「……っていう感じ」


 語り終えたジャコモがしみじみと言った。


「お前とは最初から、奇跡の連携が取れた」


「ふうん……? 悪いけど、本当に何も思い出せないや」


 最初の記憶は、絵の具の染みがついた台の上に、ごろりと置かれたこと。


 ――どうしよう、いや、育てるしかねえ。俺が。


 途方に暮れたような男の顔が可笑しくて、キャッと笑ってやったら、渋い美男子の顔が他愛もなく崩れ、それから――涙でぐちゃぐちゃになった。


「……お前、やっぱり憶えてるだろ」


「なんにも憶えてない」


 だってあの時、それまでの記憶を手放して、ただの赤ん坊になったから。


「ふん。まあいいけど……」


 と、ジャコモはあまり納得もしていなかったが、それ以上追及もしなかった。


「俺が知ってることはこれで全部だ。後のことは知らない」


「十分だ。ありがと、父さん」


 レオは父の背に手を回し、心を込めて抱擁した。


「一番知りたかったことだった」


「……」


 努めて穏やかに言ったつもりだったが、父は何か感じるところがあったらしい。


「お前、なんか怒ってるだろ」


「怒ってないさ」


 父親の勘とでもいうのか、説明は下手だが、こういうところは鋭い。


 バウタ人形を手に、レオは素っ気なく立ち上がった。


「あんまりお邪魔してもいけないし、そろそろ行くよ」


「はいはい。また来いよ」


 店先に戻ると、パスクアーレが籠の中ですやすやと眠っていた。あら……とレオが籠の中を覗き込んでいると、サビーナが小さな包みを差し出してくる。


「ティーノのおかみさんからです」


「ファウスティーナから? なんで僕がここにいるって……」


「そんなもん、お前がここに来た瞬間から、サン・ポーロ中が知ってんだよ」


 ジャコモが悪童のようにレオを小突く。


「たった五年のパリ暮らしで、もうヴェネツィアの狭さを忘れたか」


「アハッ、ちょっと、父さん止めてよ……」


「若君のお好きなバイコリだそうですよ」


「わあ、ありがと」


 身をよじってジャコモの腕から逃げていたレオが、嬉しそうに目を輝かせた。


 ダ・ティーノ独自の、ほんのりとレモンが香る厚めのバイコリ。カルミネもこれがいたく気に入って、初めて食べさせてやった時、感激しながらティーノにレシピを聞いていた。修道院でも作りたいとか何とか、尼僧みたいなことを言うなぁと思っていたら、途中から「ジェルソミーナ尼はこういうことがお好きですから、喜ばれるでしょう」とジェルソミーナの為であるかのような言い方になっていた。


「じゃ、またね」と、二人に手を振り、レオはほくほくと父の店を後にした。


 バウタ人形を片手に、歩きながらバイコリを齧っていると、子供の頃に戻った気分になる。


 あの頃は、このままここで大人になると思っていた。


 どこかの工房の見習いになって、いずれ一人前になって。


 多分誰かと結婚して、子供も生まれて。


 いくつになってもティーノの店に皆で入り浸って。


 そうやって、慎ましく、でも賑やかに、パオロたちと一緒に年を取っていくのだと。

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― 新着の感想 ―
なんの! 証拠も! 無いですが、言いたい! もしや、これ、背後から撃たれてないかな!? 背中貫通して、運命の奥様もろとも、殺されたんじゃないかな>< 奥様だけ撃とうとして、庇いにきた大事な十三番目の跡…
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