76.すべての始まりの夜のこと2
「ええと、例えばどんな感じ? 何か具体的に」
「うーん……具体的っつってもなぁ……。あ、そうだ。あれだよ……。あいつ、『パリご遊学』とやらから帰ってきた時にさぁ、下町の親父にさぁ」
――随分お見限りでしたが、どこかに行かれてたんですか?
――魔界に落とされていた。
「無理やり行かされたのは知ってたけどさぁ、真顔でそんなこと言うもんだからさぁ……フッフッフッ……」
ジャコモはその時のことを思い出したのか、心底楽しそうな悪い笑みを浮かべる。
「外で涼んでた周りの酔っ払いたちまで真に受けてさぁ……。なんせ、あいつの家が家だし」
「……」
成程。クッキアイオ家のお世継ぎが魔界に落とされるという噂の出どころは……。
「本っ当、碌なことをしない人だよね!」
「え。何でお前、ちょっと怒ってんの?」
僕じゃない。その噂に振り回された、十二歳の僕が怒ってるんだ。
しかもそういう話って、その場で一緒に聞いてたならともかく、後から聞かされる分には正直、面白さとか微妙だし!
まったくもう……。
呆れた風を装いながらも、少しずつ知っていく実父の素顔は、思っていたよりずっと多彩で複雑だった。子の欲目かもしれないが、チャーミングですらあると思ってしまう。
「……生きていてほしかった」
「うん」
ぽつりと呟くレオの肩をジャコモが抱き寄せた。
「ねえ、父さんは僕のお父さんがどんな風に亡くなったか知ってる? 僕はどんな経緯で父さんに引き取られたの?」
今まで訊ねたこともなかったが、よくよく考えれば不思議な話だった。レオは何故、クッキアイオ家ではなくジャコモの厄介になっていたのだろう。
「お前……やっぱり、何も憶えてないのか」
え、何。この言い方。
「あのさ、僕、その時赤ちゃんだったよね?」
「まあ、そうなんだけど……」
ぐっと眉間に皺を寄せるジャコモは、どう見ても何か高尚なことで悩んでいる孤高の芸術家だった。この顔が本当にかっこよくて、いつ見ても惚れ惚れする。
「俺はあんまり頭よくないから、あの日あったことをそのまま喋る」
「うん」
レオの冷たい心臓がぶるりと震えた。
あの日あったこと。
もしかしたら父さんは、おじい様やシルヴィオや、お義母様も知らないことを知っている――?
「あいつは何も言わなかったけど、あいつに秘密の恋人がいたことは、薄々気づいてた」
恋する男の表情ほど分かりやすいものはない。苦しげで、でもどこか夢見るようで。それは表情が乏しいと評されていたフランチェスコ・クッキアイオとて例外ではなく。
――ティーノが新酒仕入れたって。行く?
――今夜は約束が。
「そう言ったあいつの顔は、すげえ幸せそうだった」
だから、したたかに飲んだその夜更け、フランチェスコ・クッキアイオが所有する部屋の前を通りかかった時、耳に飛び込んできた言葉は、俄かには信じられなかった。
――クッキアイオのお世継ぎが……!
重要案件にしか出てこない、十人委員会の調査官たちが親友の部屋に慌ただしく駆け込んでいく。彼らの間を縫って部屋に飛び込むと、フランチェスコは誰かに覆い被さるようにして、うつ伏せで倒れていた。
「それで?」
「……」
「ねえ、父さん!」
言いよどむジャコモを見上げる灰色の目が、その先を強く促した。
「……背中に穴が開いてるのが見えた」
何のてらいもなくまっすぐに、ジャコモを父と呼ぶ稚い魔物の、切羽詰まった眼差しにジャコモは屈した。
「呆気ないくらい、小っちゃい穴だった。でも、もう生きてないんだって分かった」
親友の体の下には、人間とは思えないくらい、美しい女が仰向けで横たわっていた。
――女を撃った後、自害したんだ。
――何てことだ……。おい、見ろ、この娘は……!
恐ろしいものを見たように、調査官たちが後ずさった。
滴るような漆黒の羽持つ蝶が一羽、二羽と闇から現れ、女の体を覆ってゆく。
――十三番目様を呼べ!
亡くなった者の身内を呼べ、と言っているのではないことは、声の調子から明らかだった。
ジャコモはハンと鼻で笑った。
「そこまでビビるようなことじゃない。大体、その娘はとっくに死んでて、何かできる状態じゃなかったし」
「ふぅん」
父がそう思えたのは、酔っ払って気が大きくなっていたからであろう。魔物の生死の定義は人間のそれとは異なっており、この場合は調査官たちの反応の方が正しい。
ジャコモは大切なものに触れるように、そっとレオの頭を撫でた。
「一瞬しか見えなかったけど、お前のお母さんはすごく綺麗な人だったよ」
僕の、お母さん……。
レオは人の言葉を解さぬ獣の子のように首を傾げた。
「名前も知らない。ごめんな」
「……」
不覚にもこぼれ落ちた涙を、今もコロッセオと揃いの色をした指がぬぐった。
縋るように身を寄せるレオの肩を抱き、ジャコモは亡くなった彼の親友と、その秘密の恋人の、無垢で優美な忘れ形見を腕の中に包み込んだ。
「うぅー……」
この腕の中では、レオはいくつになっても、十二歳の子供のままでいることが許される。
恋しいと泣くことも、癇癪を起して喚くことも、すべて許される。
レオの気が済むまで、父がこうしていてくれることをレオは知っていた。




