75.すべての始まりの夜のこと1
夜の間はひっそり閑としていても、昼間はどこよりも賑わうサン・ポーロはリアルト橋の目抜き通りを、謹慎中の身を持て余した若君が気だるげな様子でぷらぷらと歩いていた。
――変に意識してないで、さっさと会ってこい。
別にそう言われたからじゃない。ずっと前から来ようと思ってたし。でも、そう思ってたら父さんの方から来てくれたし。だから今度は僕がと思っただけだし。
――危機感のないぼんくら坊ちゃんになって、適当にぷらぷらしておけ。
そこまで言われちゃ仕方がない。ご期待に応えようじゃないか。
お目当ての土産物屋の店先で、バウタを被った黒衣の人形を見つけ、三角帽子ごと首を傾げさせてみる。
――旦那……?
うん……とレオは物憂く頷いた。
これ、買っちゃおうかな……。
レオが人形を手に取り、しみじみと眺めていると、奥から店主の陽気な声がした。
「おっ、レオ! 来てたの~?」
「父さ――」
声のした方に目を向けたレオは、愛する養父ジャコモと、ジャコモの隣にいる若い女と、若い女が抱いている赤ん坊を見て、くるりと踵を返した。
「待て」
「し、支払いはシルヴィオが」
「そんなもん掛けで請求できるか。それは持ってっていいから、取りあえずこっち来いよ」
「……」
遠慮がちに寄ってきたレオを、ジャコモは慣れた手つきで人形ごと抱きしめた。
ジャコモの肩に片頬を押し付けられ、レオが「んう……」と片目をつぶる。相変わらず油絵の具の匂いがする。
「それ、カル君に似てるよな。俺も仕入れた時ちょっと思った。売れてるぞ」
「別に……」
抱擁を解いたジャコモが、ごく自然な動きでレオの体を妻の方に向けさせた。
あ、と初対面の二人が一瞬、固まる。
「――若君」
「チャオ、サビーナ。僕のことはレオと」
赤ん坊を抱いたまま、恭しく身を屈めるジャコモの妻に、レオはもそもそと挨拶した。彼女に含むところはないが、母さん、なんて呼べる訳がない。
あー、と彼女の腕の中で、赤ん坊が機嫌のよい声を上げた。
「パスクアーレ。今、四か月だ」
「へえ、可愛いね。チャオ、パスクアーレ……」
真っ先に思ったのは、ミケランジェロとかラファエッロではないのだな、ということだった。幸いなことだ。僕もそんな感じでよかったのに。
「まあ、抱いてみろよ」
「えっ」
レオは驚いて身を引いた。父は忘れているようだが、レオは呪われたクッキアイオ家の跡取りで、しかも半分魔物である。そんな薄気味悪いものに子供を抱かれて、サビーナが平静でいられる訳がない。
「ごめん、サビーナ……」
サビーナは寂しげにふっと微笑んだ。
「やっぱり、お嫌ですよね……」
「え? い、嫌じゃない。待って、誤解だ」
レオは慌てて否定した。これではまるで、なさぬ仲の母にレオが冷たく当たっているようだ。
「サ、サビーナが嫌じゃなければ、パスクアーレを抱かせて」
「勿論です」
サビーナはほっとしたように、赤ん坊を渡そうとレオに体を寄せた。母と子から仄かに甘い匂いがして、レオがふわりと心地よさそうに目を細める。
「ほら、カル君は俺が持っててやるよ」
「あっ、小っちゃい、怖い」
「もう首は据わってるから大丈夫」
「ぷぁー」
きゃあ、とレオが乙女のような歓声を上げた。
「ぷぁーって言った! パスクアーレが、ぷぁーって言った! ああ……うそ、可愛い」
アンニュイな美形がいとも容易く篭絡され、ジャコモは下町男の遠慮のなさでガハハと笑った。彼の妻は隣で感涙にむせんでいる。
「ああ、可愛い、パスクアーレ、可愛い」
「レオ、お前、お兄ちゃんになったんだぞ」
「可愛い」としか言えない鸚鵡になっていたレオが、はっと我に返ってジャコモを見た。
父さん、今何と。
「何でそんなに驚いてんの?」
「え……あ……だって、僕は……」
ぺた、とパスクアーレの手が、レオの頬に吸いついた。
「ぷー、あー……」
無垢で柔らかな赤ん坊の手が、屈託なくレオに触れている。レオを見上げる薄茶色の瞳はどこまでも澄んで、ああ何てこと、まっさらだ。
レオは小さな手にそっと頬をすり寄せた。
「パスクアーレ、大事にするよ。これからはもっと会いにくる」
「うー」
「若君、本当ですか」
「うん、約束する……」
パスクアーレがぺたぺたと触れてくるに任せたまま、レオはうっとりと答えた。この子の為にも、ヴェネツィアの巨悪は今、倒しておかなくてはならない――そんな決意も胸に新たである。
「んあー」
「はいはい、おいで」
母親を探し始めたパスクアーレを、レオはサビーナの腕に戻した。
「んぷぅー」
「ちょっとの間、頼む」
と、ジャコモは彼女に店番を任せ、レオを奥に誘った。
「適当に座って」
「うん」
バウタ人形を膝に乗せ、ちょこんと座るレオの隣にジャコモが座った。
「今日はどうしたの」
ああ、父さんはいつもそうだ。まだ何も言っていないのに……。
「あのさ……」
「うん」
「僕のお父さん……フランチェスコさんって、どんな人だった?」
ああ、と少しの間があって、
「いい奴だったよ、すごく」
「ふうん? どんな風に」
「……」
ジャコモの眉間に、苦悩する芸術家のような皺が刻まれた。
あ、そう言えば父さんは、説明とかは苦手なんだった。
悪いとは思ったが、レオは「やっぱりいい」とも言わず、ジャコモが口を開くのを待つ。
「うーん……何て言うか、まあ、いい奴? 気取ってないし、いい奴だし、面白いし」
「お、面白い?」
レオが怪訝な顔で父を見た。フランチェスコ・クッキアイオを語るにあたって、その人物評は初めてである。




