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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第6章:人とはなんと愚かな生き物か

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73.苦しいよ、こんなの1

「――って言われてるぞ」


 多少距離があろうと、二人の会話がしっかり聞こえているレオが、内容を逐一カルミネに語って聞かせる。


 カルミネはくすくす笑って、


「もう旦那。止めてくださいよ。これじゃあ僕は、一人で笑いながら歩いてる変な奴じゃないですか」


「うん……」


 楽しげに笑うカルミネが、レオには愛おしくてたまらなかった。


「うんって。ひどい」


 拗ねたような口振りが殊の外可愛らしい。こんなに無防備な子だっただろうか。今夜のカルミネはレオにすっかり気を許している。二人で踊ったあの夢のようなワルツが未だ、彼に魔法をかけている。


「カルミネ……」


「はい」


「……」


 レオの吐息が、連れ立って歩く夜の小径にほろりと溶けた。


 あの人にとても近いお前が、あの人と同じ目で僕に笑いかけてくる。


「旦那? もしやご気分が……」


「違う」とレオは力なく首を振った。


 違う。お前はあの人じゃない――。


 カルミネはレオをまっすぐに見上げ、


「違わないでしょう。今、苦しいんでしょう?」


「違う」


 苦しいよ、こんなの。


 カルミネは呆れた様子で、


「ハァッ? 違わないでしょ? ちょっと長居し過ぎましたかね。旦那、いいから僕につかまって――」


「違うって、そんな訳ないって、頭では分かってるのに……」


 なのに、僕にはもう、お前がジェルソミーナだとしか思えない。


 ジェルソミーナとカルミネは、顔も声も似ていて、背丈も丁度同じくらい。しかもレオは、僧服に身を包んだ清らかなあの人が、昔は男に化けて街歩きなどする、とんでもないお転婆だったことを知っている。


「でも、そんなはずない、そんなの僕の思い違いだって、何度も自分に言い聞かせて……」


「そうですね、旦那、誰も責めやしませんから、現実を見ましょう。旦那は今、調子が悪いんです。さ、門まで僕が支えますから……」


 レオは悔しそうに呻いた。


「お前の女装姿を見たせいだ……!」


 あれがものすごく可愛かったから――。


「なっ……何ですって……」


 小さなバウタが怒りでわなわなと震えた。


「分かりましたよ。金輪際、僕は女の恰好で旦那の前には現れません。お目汚しなことで、どうもすみませんでしたね」


「待て。それは困る……」


 すっかり機嫌を損ねてしまったカルミネに、レオは後ろからとろりと抱きついた。頭の中はぐちゃぐちゃだったが、つかまっていいと言われたことは憶えている。


「離れてくださいよ」


「つかまっていいって言ったじゃないか」


「言いましたっけ? そんなこと……あっ、旦那……」


 つれなく離れようとするカルミネの顎をすくって振り向かせ、レオは口づけるように囁いた。


「……誰かいる」


 途端にカルミネはレオを庇うように前に立ち、明かりを高々と掲げて呼ばわった。


「出てこい、命知らず!」


 命知らずはお前だ。馬鹿。


 場合によっては、レオはふらふらの体に鞭打って、助手を抱えて逃げなくてはならない。そんな未来を受け入れる心の準備をしつつ、レオは少しでも優位に立とうと、カルミネの耳元で囁いた。


「あの木の陰にいる。僕が――」


「その木の陰にいることは分かっているぞ!」


 お前、なんでそんなに男らしいの⁉


 僕が背後からそっと近づくから、とレオが言おうとしていたことは、今となっては頭上に輝く月だけが知っていた。


 武器にでもするつもりなのか、明かりを構え直したカルミネは見ようによってはとても頼もしい。


「旦那、絶対に、無事に門まで送ってあげますからね」


「うん、ありがとう……」


 レオがすっかり諦めた頃、木の陰で息を潜めていた人物もどうやら諦めたようだった。


「おお、怖い。そんな声を出して……」


「リリアーナ尼」


 ちょこちょこと小さな歩幅で小径に現れたのは、どことなくリスを思わせる、華奢で可愛らしい娘だった。僧服など無論着ていないが、ここの尼僧だろう。大きな目がうるうると涙を溜め、責めるようにカルミネを見ている。


 カルミネは明かりを下ろし、冷ややかに訊ねた。


「こんな時間に、こんな場所で何を?」


「あなたこそ。ねえ、誰かと一緒だったんじゃない?」


 ふっ、と笑みのようなものを見せたカルミネの、冷ややかさは減るどころかむしろ増した。


「ああ、何だかムカつく蝿がいたものですから、追っ払ってました。勿論、僕一人ですよ」


「あら、そうだったの」


 そう言いつつも、可愛らしい大きな目が、抜かりなく周囲を見回している。


 ふん……とレオは人の悪い笑みを浮かべた。


 この娘から、何となくカルミネの匂いがする。


「僕に何かご用ですか」


「カルミネ、そんな言い方……」


「――お邪魔なら僕は外そうか?」


 耳元でレオが囁くと、カルミネがカッと赤くなった。


 へえ……お前がそんな顔をするとは。


 微かにとはいえ、カルミネの匂いをまとっているからには、そう浅い仲でもないだろう。どっちが先に熱を上げ、どっちが先に冷めたのか。

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