73.苦しいよ、こんなの1
「――って言われてるぞ」
多少距離があろうと、二人の会話がしっかり聞こえているレオが、内容を逐一カルミネに語って聞かせる。
カルミネはくすくす笑って、
「もう旦那。止めてくださいよ。これじゃあ僕は、一人で笑いながら歩いてる変な奴じゃないですか」
「うん……」
楽しげに笑うカルミネが、レオには愛おしくてたまらなかった。
「うんって。ひどい」
拗ねたような口振りが殊の外可愛らしい。こんなに無防備な子だっただろうか。今夜のカルミネはレオにすっかり気を許している。二人で踊ったあの夢のようなワルツが未だ、彼に魔法をかけている。
「カルミネ……」
「はい」
「……」
レオの吐息が、連れ立って歩く夜の小径にほろりと溶けた。
あの人にとても近いお前が、あの人と同じ目で僕に笑いかけてくる。
「旦那? もしやご気分が……」
「違う」とレオは力なく首を振った。
違う。お前はあの人じゃない――。
カルミネはレオをまっすぐに見上げ、
「違わないでしょう。今、苦しいんでしょう?」
「違う」
苦しいよ、こんなの。
カルミネは呆れた様子で、
「ハァッ? 違わないでしょ? ちょっと長居し過ぎましたかね。旦那、いいから僕につかまって――」
「違うって、そんな訳ないって、頭では分かってるのに……」
なのに、僕にはもう、お前がジェルソミーナだとしか思えない。
ジェルソミーナとカルミネは、顔も声も似ていて、背丈も丁度同じくらい。しかもレオは、僧服に身を包んだ清らかなあの人が、昔は男に化けて街歩きなどする、とんでもないお転婆だったことを知っている。
「でも、そんなはずない、そんなの僕の思い違いだって、何度も自分に言い聞かせて……」
「そうですね、旦那、誰も責めやしませんから、現実を見ましょう。旦那は今、調子が悪いんです。さ、門まで僕が支えますから……」
レオは悔しそうに呻いた。
「お前の女装姿を見たせいだ……!」
あれがものすごく可愛かったから――。
「なっ……何ですって……」
小さなバウタが怒りでわなわなと震えた。
「分かりましたよ。金輪際、僕は女の恰好で旦那の前には現れません。お目汚しなことで、どうもすみませんでしたね」
「待て。それは困る……」
すっかり機嫌を損ねてしまったカルミネに、レオは後ろからとろりと抱きついた。頭の中はぐちゃぐちゃだったが、つかまっていいと言われたことは憶えている。
「離れてくださいよ」
「つかまっていいって言ったじゃないか」
「言いましたっけ? そんなこと……あっ、旦那……」
つれなく離れようとするカルミネの顎をすくって振り向かせ、レオは口づけるように囁いた。
「……誰かいる」
途端にカルミネはレオを庇うように前に立ち、明かりを高々と掲げて呼ばわった。
「出てこい、命知らず!」
命知らずはお前だ。馬鹿。
場合によっては、レオはふらふらの体に鞭打って、助手を抱えて逃げなくてはならない。そんな未来を受け入れる心の準備をしつつ、レオは少しでも優位に立とうと、カルミネの耳元で囁いた。
「あの木の陰にいる。僕が――」
「その木の陰にいることは分かっているぞ!」
お前、なんでそんなに男らしいの⁉
僕が背後からそっと近づくから、とレオが言おうとしていたことは、今となっては頭上に輝く月だけが知っていた。
武器にでもするつもりなのか、明かりを構え直したカルミネは見ようによってはとても頼もしい。
「旦那、絶対に、無事に門まで送ってあげますからね」
「うん、ありがとう……」
レオがすっかり諦めた頃、木の陰で息を潜めていた人物もどうやら諦めたようだった。
「おお、怖い。そんな声を出して……」
「リリアーナ尼」
ちょこちょこと小さな歩幅で小径に現れたのは、どことなくリスを思わせる、華奢で可愛らしい娘だった。僧服など無論着ていないが、ここの尼僧だろう。大きな目がうるうると涙を溜め、責めるようにカルミネを見ている。
カルミネは明かりを下ろし、冷ややかに訊ねた。
「こんな時間に、こんな場所で何を?」
「あなたこそ。ねえ、誰かと一緒だったんじゃない?」
ふっ、と笑みのようなものを見せたカルミネの、冷ややかさは減るどころかむしろ増した。
「ああ、何だかムカつく蝿がいたものですから、追っ払ってました。勿論、僕一人ですよ」
「あら、そうだったの」
そう言いつつも、可愛らしい大きな目が、抜かりなく周囲を見回している。
ふん……とレオは人の悪い笑みを浮かべた。
この娘から、何となくカルミネの匂いがする。
「僕に何かご用ですか」
「カルミネ、そんな言い方……」
「――お邪魔なら僕は外そうか?」
耳元でレオが囁くと、カルミネがカッと赤くなった。
へえ……お前がそんな顔をするとは。
微かにとはいえ、カルミネの匂いをまとっているからには、そう浅い仲でもないだろう。どっちが先に熱を上げ、どっちが先に冷めたのか。




