71.聖域での語らい1
「概ねこちらの読み通りだったな」
件の地下室の真上にある礼拝堂で、敬虔なキリスト教国たるヴェネツィアの首席行政官は一人、祭壇に向かって祈るように語りかけていた。
隣にはレオ、その隣にはカルミネが座っているので厳密には一人ではない。
だが、この場合において重要なのは、傍からはそう見えるということだった。
事前に示し合わせた通り、レオは修道院に入るところを誰にも見られないようにした上、今も気配を消している。カルミネはここの使い走りで、パーリアから見れば人の数には入らない。いつ何時、後ろの扉が開いて「総督閣下、あまりにもお帰りが遅いのでお迎えに」と補佐官殿が現れても、マリーノは笑顔で「それはわざわざ」と言えるのだった。
山積みの仕事を脇へ置き、「少し、静かな時間を過ごしたい……」などと白々しい理由をつけて無理やりここへ来ている身であれば、万一に備えておくに越したことはない。
「コントゥッティを引き込めたのは大きいが、彼の証言だけでパーリアまでたどり着くのは厳しいな」
「そうだね。ルカは最初の事件しか関わってなかったみたいだから、トゥリパーノ家のやらかししか証言できない」
「パパ・トゥリパーノの逮捕は堅いでしょうが、パパが陰謀の全容と、盟友の名を吐く前に『病死』するかもしれませんしね」
マリーノはうつむき、祈っているかのように目を伏せた。
「ああ。ここはやはり、偽のゴンドリエレたちの身柄をさっさと押さえたいし、レオの言う凶器とやらも是非欲しい」
「そこは僕が気配を消して、こつこつ探っていくさ」
レオが暢気に欠伸をしながら言う。
「ルカは知らないって言ってるんだから、しょうがないじゃない」
「そうか? 面白い名が出てきたじゃないか。トゥリパーノ家の連絡係、ダンテ・スパートラ」
「ああ……」
成程、そこからたどった先に、彼らがいる可能性はあるか。
何食わぬ顔で祭壇を見上げる美しき悪魔は今、頭の中でどんな算段をしているのだろう。「マルコにやらせるか……」などと機嫌よく呟いている。
「それよりレオ」
算段がついたのか、随分と気安い雰囲気になっているマリーノが、ぽっかりと空いた隣の席にずいと顔を近づけた。
「マリーノ、近い近い」
「コントゥッティの言っていた不思議な指輪が何か、お前は知っているか」
「あーそれね。会った時に言おうと思ってた」
レオは先程、夜会でカルミネに伝えたように、トゥリパーノ家が遠い昔、獣化の呪いを得たことと、それを抑える為に別の呪いをこめた指輪を持つようになったことを告げる。
「成程。だが、コントゥッティの話を聞く限り、呪いを得たのはむしろ奥方のようだったが?」
――奥様の顔が。
――顔……?
――あれは、魔に魅入られた人間の顔だったと思います。
「ああ、そうだね……」
「奥方は魔との接触を重ねるうち、知らず魔に魅入られ、自ら喉を差し出したということか」
「うーん……。結果的にそうなっちゃったけど、相手がちょっと違う。奥方を魅了していたのは恐らく、魔獣ではなく指輪の方だ」
「指輪? 魔獣を抑える為の?」
「うん」
魔獣は魔獣で、別の意味で奥方を魅了していたと言えるだろうが。
「トゥリパーノにとって、例の指輪は呪いを打ち消してくれる護りのようなもの。でも単体で見れば、それは結局、別の形をした『呪い』以外の何ものでもない」
「それは取り扱い注意ですね」
「うん。無害と見せかけて、その実、人を狂わさずにはいられない危険な代物だ」
「美しいのか」
「いや、人目を引く意匠ではなかったはずだよ。万が一にも盗まれてはならないから」
情人の指から外される、何の変哲もないただの指輪。
いつからだろう――狂おしいほど、それが欲しくて欲しくてたまらなくなったのは!
一度でいいからあの指輪を嵌めてみたい。魂が終わるその日まで、あの指輪に囚われたい。
「善悪も美醜も超えたところで、奥方はずっと、指輪に恋い焦がれていた」
いや、恋い焦がれていた、なんてものじゃない。
そんな言葉で片付けられるのなら、あの夜の惨劇は起こらなかった。
「そして、遂にあの夜――」
聖域に響く甘い声が、罪深き夜を呼び覚ます。
「激しい情事の後で、獣の愛人は未だ夢うつつ」
美しい体に薄い部屋着を這わせ、奥方は寝台を下りた。
何度見ても美しい……。
台の上に置かれたそれを手に取って、ためつすがめつ眺めているうちに、指に嵌めてみずにはいられなくなった。
「これが、きっかけ」
ああ、何ということ。わたくしの指にぴったり……!
その指輪を嵌めた指は、いつもよりほっそりと、美しく見えた。
『――やはりそうだった』
体の奥底から湧き上がる、歓喜にも似た確信。指輪はわたくしのもの。いいえ、わたくしは指輪のもの。
――返せ。
それは果たして、人間の言葉だっただろうか。
獣の愛人がいつの間にか身を起こし、殺気立った目で奥方を見据えていた。
「……彼も必死だ。それがないと人の姿に戻れない」
愛人が襲いかかってくる。指輪だけは渡すまいと、奥方は咄嗟の行動に出る。
「奥方は指輪を引き抜き、迷わず飲み込んだ」
剥き出しの指に嵌めている指輪なんて、すぐに取り返されてしまうから――。
「でも、次の瞬間――奥方の喉は指輪ごと獣の口の中」
肉と繊維を引きちぎられ、温かい血を噴き出しながら、奥方は一瞬で事切れた。永遠に指輪を閉じ込めたと錯覚した直後の死であり、その死に顔は死に様に到底、釣り合わぬほど安らかだった。
一方、後に残された者はと言えば――。
「物言わぬ骸のすぐそばで、生者は必死の探し物だ」
あれがない。小さくて冷たくて熱いあれがない。
人間としての意識は半ば失われ、血まみれの獣はただ本能の赴くまま、指輪を求めて必死に舌と牙を動かした。
『――ああ、あった……』
ぬるぬると滑るそれを不器用な手で指に戻すと、まるで呪いが解けるように、忌まわしい体は美しい人間の男の姿になった。
人の目で彼は何を見ただろう。
呪われたトゥリパーノ家の放蕩息子、ヴィルジリオはそこで力尽き、血だまりの中に倒れ込んだ。




