70.元家令の供述3
「事件当日からお前が逃亡するまでの間、お前は他に何をやった? 咎めはせぬから、包み隠さず話せ」
特に何も、とコントゥッティは答えた。本当のことである。
「魔獣とチチズベーオを結びつけるような、新たな証拠でも出れば、誰かが勘付く前にもみ消すつもりでおりましたが、何も出ませんでしたので」
いちいち指示など出されずとも、一流ならばそれくらいの気配りは当然。
「向こうから接触は」
「しばらく経ってから、なかなかの額の金子を頂戴致しました。口止め料も入っていたかと存じます。今後も何かあればまた、と言外に仄めかされましたが、こんなにもらえるなら悪くないな、と」
総督がうんうんと頷く。舌が回り過ぎている気がしないでもないが、コントゥッティの本能は、洗いざらい喋った方が身の為だと告げていた。
コントゥッティは彼を取り囲む面々に、ちらりと視線を走らせた。
黒衣が折りたたまれた優美な黒い翼にも見える、人並み外れて美しい男と、大人しそうに見えて、どことなく危うい雰囲気を湛えた半魔の若君、仮面の下の美貌が容易に想像できる、中性的な謎めいた少年。
この中で人間は俺だけか……。
「コントゥッティ、疲れているようだが、もう少しだけ確認したい」
「はい閣下。仰せのままに」
ヴェネツィアを統べる悪魔に、逆らうことなど思いもよらぬ。
「この件に、トゥリパーノ家以外の貴族が関わっていたかどうか知っているか」
「いいえ、存じ上げません」
「偽のゴンドラ漕ぎたちの、今の所在は」
「残念ながら、閣下」
トゥリパーノの放蕩息子の不始末が、とんでもない事件につながっていることは察していても、その先のことは本当に何も知らない。
総督はふむ、と顎に手を置き、「さすがだな」と独り言ちた。
「マリーノ」
「いや、十分だろう。これだけあればトゥリパーノの関与は明白。彼を捕えて尋問すれば真相など一瞬で吐くし、盟友も一瞬で売る。コントゥッティ、お前と接触したトゥリパーノ家の使いの者の顔は分かるか」
それは仮面大国ヴェネツィアならではの質問だった。
「名も分かります。あの家の家令の専属使用人、ダンテ・スパートラ」
「よし」
一流ならば、これくらいは把握していて当然だった。
総督は来た時と同じく、ご満悦の表情で立ち上がった。
「今夜はこのくらいにしておこう。よく休め」
「もったいないお言葉です」
慈悲深き悪魔の労りに、彼の僕は額ずいて見送らんばかりだった。扉に向かっていた総督がふと足を止め、漆黒の翼越しに振り返る。
「それで、お前はあの夜、何があったか実際に目撃した訳ではないのだな?」
「閣下、この期に及んで嘘は申しません」
「何があったと思う?」
「チチズベーオが奥様の喉を喰い破ったかと」
「――あの夜に限ってか」
とうに限界を迎え、うつらうつらし始めていたコントゥッティの頭の中に、天鵞絨の声がとろりと忍び込んだ。何を今更、と思いながら、コントゥッティは口を滑らせた。
「行き過ぎたのだと思います。いつかはこんなことになるだろうと心のどこかで思っておりました」
「ほう? 予兆があったのか?」
「……」
「コントゥッティ――」
まずいと思ったが、もう遅かった。
「……埒もない話です。私の思い違いのような気もしますし」
「構わぬ。話してみよ」
優しい声に促され、コントゥッティはためらいがちに口を開いた。
「奥様の顔が」
「顔……?」と物憂く首を傾げたのは、総督ではなくクッキアイオの若君である。
はい、とコントゥッティは途方に暮れたように、
「うまく言えないのですが、美しいようで醜く、醜いようで美しく。あれは……」
見たものをそのまま口にするなら、そうとしか言いようがない。
「あれは、魔に魅入られた人間の顔だった、と思います」
「そう」
若君がおっとりと頷いた。
張りつめていた糸が突然、ぷつりと切れた。
「ルカ――」
限界を迎えたコントゥッティの体が石棺から崩れ落ちる。だが、硬い床にぶつかる痛みはいつまで経っても訪れず、それどころか、体は肉の重さを知らぬように、何事もなく床に横たわった。
体の上にふわりと厚手のマントが掛けられる気配。
「――ゆっくりお休み、ルカ」
鼻にかかった甘い声を聞きながら、コントゥッティは言われるがまま、素直に意識を手放した。




