68.元家令の供述1
――ちょっと手配してくる。卓にあるものは、毒なんか入ってないから安心して食べて。
と、半魔と噂の若君がいずこかへ行っている間、ルカ・コントゥッティは久々のパンにありついた。
逃亡中は常に緊張状態だった反動か、腹が満ちる頃にはもう何も考えられなくなっており、「これに着替えておくように」と手渡されていた衣服に大人しく手を通した。
昔ながらの尼僧服と、髪を隠す白いコイフ。昨今の若い娘はあまり好まなさそうな装いである。
「ああ、悪くない」
戻ってきた若君が着替え終えたコントゥッティを一瞥して笑みを見せ、「じゃ、行こうか」と促した。連れていかれた小運河には無蓋ゴンドラがひっそりと停まっている。
「あちらで迎えの者が待っているから」
若君はそう言い残して立ち去ってしまい、コントゥッティだけを乗せたゴンドラが岸を離れた。
「――んっ?」
「静かに」
落ち着かない様子で、きょろきょろと辺りを見回すコントゥッティを、ゴンドラ漕ぎが窘めた。
コントゥッティは小声で詫び、僧服の上に羽織っている黒いマントのフードを深くかぶり直した。
何かが一緒に乗っているような気がする……。
コントゥッティはそれとなく辺りを見回すが、ゴンドラに乗っているのは確かに彼だけだった。
気のせいか……。
いたとしてもせいぜい蝿か何かだろう。
蝿一匹の影にさえ怯える、今の自分が情けなかった。
おおよそ半時間後、大柄な尼僧はサンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院にひっそりと到着した。
「こっちですぜ」と、一度ミディーカ宮で会ったことのある、胡散臭い仮面の少年に連れられて礼拝堂に入る。少年は慣れた足取りで最奥にある祭壇の裏に回り、一見それと分からぬ扉を潜った。
コントゥッティは内心驚きながらも、少年に続いて地下へと続く階段を下りる。
いつの間に来ていたのか、小運河で別れたはずの若君も一緒に歩いていて、
「マリーノ様もすぐいらっしゃるそうです」
「そう」
などと、バウタの報告におっとりと応えていた。
若君は物憂い笑みをコントゥッティに向け、
「安心して。この地下室の存在は、院長とマリーノしか知らないそうだ」
「……随分、手回しのよろしいことで」
「せっかく頼ってくれても、その後がノープランだったら意味ないだろ?」
どうやらこの若君は、美貌だけが取り柄の馬鹿ではないらしい。そういえば聞いたことがある。彼はチェスの名手であり、神童時代はサン・ポーロの無敵艦隊と呼ばれるほどの腕前だったと。業腹だが、この恰好をさせられている理由も一応、理解できる。だが、理解できることと、受容できるかどうかということは、また別の問題だった。
へえー……と、湿っぽく鬱蒼とした地下室を、どことなくうっとりと見回している若君に、大柄な尼僧は恐る恐る訊ねた。
「あの、まさか、私はずっとこの恰好のままってことはないですよね?」
「えっ」
次の瞬間、若君はまるで楽しい冗談を聞かされたように笑い声を上げた。
「そこも安心してくれ。今のままじゃ、お前はただの変態だものね」
悪気なさそうに酷いことを言って、若君は「あるよね」と怪しいバウタに確認する。「ええ」とバウタが心得たように、黒衣の下から男物の服を取り出した。
即座に着替え始めるコントゥッティから少し離れたところで、若君が少年の小さな顎をすくい、しっとりとした目で彼を見つめ始めた。コントゥッティがそばにいることを完全に忘れている。このバウタに夢中なのだろう。
「あのさ、もう寝てた……?」
はい来た。よそでやってくれ。コントゥッティの心の叫びも知らず、バウタが優しく微笑む。
「いいえ。さっきの、僕たちの逢瀬のことを考えてました」
「僕もだ」
俺疲れてるし、ひと眠りしたいな……とコントゥッティが思っていると、国家元首にしておくにはあまりにも艶やかな、美しい男がご満悦の表情で入ってきた。
「レオ、よくやった」
「マリーノ」
総督閣下は子猫でも撫でるように、若君の頬をぴたぴたと撫でた。間一髪、男の服に着替え終わっていたコントゥッティは深々と首を垂れ、総督に謝意と恭順の意を示す。総督は満足げに彼を見やり、
「ルカ・コントゥッティだな。保護してやるから、知っていることをすべて話せ」
「はい……」
何と麗しい声音だろう。全身が痺れるようだった。保護下に置かれるからには、元よりそうするつもりでいたコントゥッティだったが、「魂を食ってやるから、知っていることをすべて話せ」と言われても、その通りにしてしまいそうな天鵞絨の声である。
総督はベンチなのか石棺なのかよく分からない場所に腰を下ろし、機嫌よく微笑んだ。
「楽にせよ」
「はい」
他に選択肢もなく、命さえ助かればという思いで縋った悪魔の手だったが、待遇は予想以上だった。最初に差し出されたのは食料と着替えと安全な隠れ家で、脅してすべてを吐かせようという雰囲気もない。
「お前はトゥリパーノ家から送り込まれたのか」
「いいえ、私は従僕の頃からミディーカ家にお仕えしておりまして、トゥリパーノ家とはこれまで一切無関係でございました」
コントゥッティは実に素直に、ぽつりぽつりと話し始めた。問わず語りに、あるいは問われるがまま。
カルミネ「さっきの、僕たちの逢瀬のことを考えてました」(何か言い忘れたことはなかったかな、と)
レオ「僕もだ」(さっきのお前、食べちゃいたいくらい可愛かったな、と)




