67.夢の名残2
レオが途方に暮れていると、扇の陰から嫌そうな声がした。
「お前、フランチェスコによく似ているわ」
「……」
いつも思うが、どうやって見ているのだろう。こちらからは扇の向こうにいる人物の表情など、一切分からないというのに。
「代わりに頬を打たれて差し上げましょうか」
「その程度でわたくしの気が済むと思うのですか」
「浅はかでした。お許しください」
扇の向こうの緊張が、ふっと緩まる気配がした。
「――やっぱり、全然似ていないわ」
ぱちん、とアデリーナが扇を閉じる。人形のような美貌には無論、泣いていた痕跡など一切ない。
アデリーナがぽつりと言った。
「二人は折り重なるように死んでいたのですって」
二人、とはレオの父母、アデリーナにとっては婚約者と「その方」のことだ。
二人の死に様を聞いたのはこれが初めてだった。
「……彼は結局、愛も命もその方に捧げた」
――それはどうかな。
下町育ちの世馴れた半魔は、お育ちの良い義母の言うことにすんなり頷けなかった。
義母にはとても言えないが、最後の最後に敵として互いに殺し合った可能性はゼロではない。
あるいは、どちらかが仕掛けた無理心中だったかも。
昔、シルヴィオが言っていた。二人の死の真相は誰にも分からぬと。
そうだよね。分かる訳ない――。
そんなもの、渦中の二人にしか。
両親と言っても顔も知らない人たちで、恋しさも一人残された恨みもない。だからレオの冷たい心臓が少しだけ締めつけられるのは、多分ただの感傷だった。
「何と言っていいのか分かりません」
「そういう時は黙っていればよいのです」
アデリーナは静かに言い放ち、窓の外に目を向けた。
窓の外に広がるのは、海と空の区別もつかぬ一面の漆黒。
二人を乗せたゴンドラの色さえも、すべては等しく闇に溶け、後に残された者たちは、永遠に答えのない「何故」を抱えて生きていくしかないのだった。
レオは物憂くため息を吐いた。
「それで、お義母様――」
「何ですか」
「改めて伺いますが、何故そんなものを持ち歩いているんです」
銃の携帯に関しては、謎のままにしておく訳にはいかなかった。
アデリーナの性格上、形見として持ち歩いている可能性もなくはなかったが、そうだとしてももっと当たり障りのない、無害な形見があるだろう。
「何故も何も」
アデリーナはお前こそ何故そんなことを訊くのかと言わんばかりに眉をひそめた。
「護身用に……」
「え? 撃つんですか? 暴漢とかを? お義母様が?」
意外と本来の用途だったので驚いた。
目を白黒させているレオに、アデリーナは自慢するでもなく淡々と、
「わたくし、結構上手いのですよ」
「お義母様、そこじゃありません」
淑女たるアデリーナが手ずから銃を取らねばならないなんて、一体どんな状況なのか。ざっと考えても何も思いつかない。
「ヴェネツィアは治安が良いですし、普通に生活している女性にこんなものは不要です。むしろ持っている方が危ないですよ」
「そう? では、シルヴィオに預けておこうかしら……」
「是非」
アデリーナが割とどうでもよさそうなので、レオは強めに念を押した。
おや……。
「お義母様、よろしければ肩をお貸ししましょうか」
夢見る人形のようなアデリーナの眼差しが、こちらを見ているようで見ていないことに、レオはようやく気がついた。
「……何のことです」
よく言う。今にも瞼が閉じてしまいそうなのに。
子供のように華奢な体型のアデリーナは、あまり酒には強くないのだろう。思わぬ昔語りが飛び出したのも、今夜の接待で酔いが回ったせいかもしれない。
あなたはもう少し、弱いところを誰かに見せてもいいのでは――そう思いながら、レオはふっと甘く笑った。
「お義母様、大丈夫ですよ。ここには僕たちしかいません」
悪徳をそそのかす悪魔のように囁いて、レオは両の腕をゆったりと広げる。
「どうぞ、ご遠慮なく」
「……」
何が気に障ったのか、アデリーナの片眉がぴくりと上がった。
「レオナルド」
「はい」
「お前、いつまでもふらふらしていないで、さっさと良いお嬢さんを見つけなさい」
「ええー……。何です、急に……」
そこから先は、クッキアイオ宮に着くまでずっとお小言だった。
「ですから、お前は素行を改めなければ、本当に大事なお嬢さんから信頼してもらえませんよ……」
「誤解です。何度言えば……」
ようやくクッキアイオ宮に帰りつくと、レオは出迎えたシルヴィオにこれ幸いとアデリーナを預けた。「お義母様、酔っ払ってるから」と耳打ちも忘れない。
「レオナルド――」
「お休みなさい。お義母様」
レオはさっさと自室へ退散し、美麗な衣装を脱ぎ捨てた。どうせ気配は消すのだが、普段の恰好の上に目立たぬよう黒衣を羽織り、クッキアイオ宮をするりと抜け出す。
夜の空気を胸いっぱいに吸って、とん、と屋根に足を乗せた。
夜のヴェネツィアを一望しながら、向かうはサン・ポーロ地区。
クッキアイオ宮に連れ戻されてからも、レオは夜毎、巣に戻るようにあばら家に帰っていた。
建付けの悪い扉を音もなく開けて、盗人のようにひっそりと、自宅に足を踏み入れる。
――今夜はどうかな。
小さな明かりを一つ灯し、異変はないかと室内を見回す。作業台兼食卓に置いておいたパンとワインは手付かずのまま。だが奥に人の気配を感じた。ジェルソミーノの花舞い散る、美しい衝立の向こうに誰かがいる。
レオは声を潜め、衝立に向かって囁いた。
「僕だ。レオナルド・ヴィンチ……クッキアイオ」
変な名乗りになってしまった。何を言うか先に考えておけばよかったなと思うがもう遅い。
「安心して。ここには僕しかいない」
辛抱強く待たずとも、衝立の後ろに回ってしまえばいいのだが、レオはそうせず、相手が出てくるのを待った。
「……随分、お早いお帰りじゃないか、若君」
ややあって、見るからにげっそりとした、薄汚れた男が衝立の陰から現れた。
レオに皮肉を飛ばす元気は残っているようだが、かつてのエレガントな風貌は見る影もない。何日も食べていないようなのに、こちらが用意した食料には一切手を付けていない辺り、相当用心深いのだろう。だからこそ彼は今もこうして生きている。
「やあ、ルカ」
レオは努めて友好的な笑みを、ルカ・コントゥッティ――ミディーカ家の元家令に向けた。
彼の選択は間違っていないと請け合うように。
第5章:夢と踊るワルツ(完)




