66.夢の名残1
雑踏の中に消えたカルミネと入れ替わるように、アデリーナが漆黒のドレスを揺らしてレオの前に立った。
「レオナルド」
「――振られてしまいました」
先手必勝とばかりに、レオは物憂く微笑む。
アデリーナはカルミネが消えた方向に目をやり、しばらく視線をさまよわせていたが、やがて上品に目を伏せた。
「帰りましょう……」
「是非。でも、いいのですか」
「少し、疲れてしまって」
アデリーナは酔いの回った美しい目をしていた。ディーエスィーレの奥方に接待でもされていたのだろう。謎のご令嬢のことはこれ以上追及されずに済みそうで、レオは密かに胸を撫で下ろす。
「あ」
暇乞いを済ませた帰りのゴンドラの中で、普段は淑女の鑑のようなアデリーナが、らしくもなく足元をふらつかせた。
「お義母様、大丈夫――」
アデリーナがゴツンと音を立てて不器用に着席する。
え。あり得ない。
いや待て、それよりも。
「お義母様、今の音は……?」
淑女のドレスを構成する素材にはあり得ない、硬い音だった。
「ああ、これ……」
アデリーナがドレスのスリットに手を入れる。白鳩でも取り出したかと見れば、それはやや小ぶりではあるものの、男性用と思しき黒檀の銃だった。
「なっ……何で、こんなもの」
「フランチェスコが」
またあの人か……。
レオはうんざりと眉をひそめた。
皆が口々にその静謐な美貌を称え、シルヴィオなどは「高潔なお人柄」と人格まで絶賛し、レオの最愛の養父かつ外見も中身も文句なしの男前、ジャコモと親友だったからには、そこそこいい男だったのかと思わなくもない実の父だが、レオの知る限り「運命のひと」を取り違え、「運命のひと」と勝手に死に、結局誰のことも幸せにしなかった男である。
本当に碌なことをしない……。
「何故」と問うレオの声は、咎めるような響きを帯びた。矛先は勿論、父である。
「これで、殺してくれと」
「誰を」
「あのひとを」
――フランチェスコを。
「何故……」
「好きな女ができた、と」
「だから、何故!」
アデリーナがぼんやりとレオを見つめた。
精緻な宝飾品めいて美しいアデリーナの唇は、今宵キプロスのワインで湿され、魔法をかけられたようだった。唇はゆっくりと弧を描き――。
『あなたに、殺してほしい――アデリーナ』
彼はあの時そう言った。
跪いて愛を乞うように。
『――その女以外、何も欲しくない』
夢見るような瞳で、何かをなぞるように呟いて、アデリーナが少し首を傾げた。それは誰かを見つめる時の、フランチェスコの癖だろうか。
『私を殺せ、アデリーナ』
「どうして……」
アデリーナがふっと微笑んだ。レオの呟きは、そのままあの日の彼女の言葉だったから。
――どうして……?
――あなたを裏切った私が憎いだろ。
まどろむような灰色の瞳が、穏やかにアデリーナを見つめている。
『でも、あなたを罪人にはしない。私の手の上から持って』
そう言って、フランチェスコは銃口を自分の胸に当て、銃を持つ彼の手の上にアデリーナの手を導いた。
『引き金を』
止せ、とレオが首を振る。
『皆には私が自害したと言え。そうして、あなたは今度こそ、あなただけを愛する男を――』
アデリーナはそこでフランチェスコの振りを止め、
「――バン」
指で作った銃で、レオの側頭部を撃った。
二人きりの狭い船室で、声も出せない義理の息子に、アデリーナは静かに言った。
「わたくしが短気だったら、ここで撃っていたところです」
「……」
実際に撃ったかと一瞬でも思ってしまったことは、棺まで持っていかなくてはなるまい。
「彼はわたくしにもその方にも良い顔をしようとして、その方には愛を、わたくしには命を差し出そうとした」
普段はむやみに感情を表すことのないアデリーナだが、今夜は箍が外れているようだ。人形のように美しい唇が、小気味よく吐き捨てた。
「馬鹿な人」
「……」
レオはひたすら首を垂れる。反論できないしする気もない。
「本当に、馬鹿な人」
「はい」
一度では言い足りなかったようだった。
確かに褒められた行為ではない。そんなことをされても、義母がちっとも嬉しくなかったらしいことも分かった。だが、レオには父の気持ちも分からなくはなかった。彼なりの誠意はもう少し、評価されてもよいのではないか。そう思うのは、レオが男だからだろうか。
「本当に何も分かっていない!」
「は、はいっ、すみません」
心の内を見透かされたかと、レオがびくびくと謝罪した。
アデリーナは思いの丈をぶつけるように、扇でぴしりと壁を打った。
「旧家に生まれながら、あのひとは貴族の婚姻というものが、何も分かっていなかった」
心なしか先程より声も大きくなっている。義母にこんなに飲ませたのは誰だ。
「黙認する、とわたくしは言った。子が生まれたらわたくしが引き取り、嫡子として育てる、と」
それは破格の申し出だった。相手の女も感謝こそすれ、アデリーナを恨む理由はない。だが、フランチェスコは首を横に振った。
――駄目だ。
「どうして」
もう何度目か分からぬ問い。決して得られぬものを求め、扇を持つ手が戦慄いた。
――それほどに、愛しているの。
――愛している。
とらえどころのない、淡くけぶる灰色の瞳がまっすぐにアデリーナを見た。
――私を殺して自由になれ、アデリーナ。
発条の切れた人形のごとく、アデリーナはがくりとうなだれた。
「そんなこと、できるはずがない――!」
引き金を引くことも、嫌だと泣いて縋ることも。
誰よりも気高く聡明な、アデリーナ・バーチに何故そんな真似ができようか。
「軽率だと彼を窘めた。大切なお役目を引き継ぐ身でありながら、と」
完璧な淑女の仮面の内側の、無数の小さな傷を誰が知ろう。けれども冬の湖水にけぶる冷たい灰色は、どこまでも身勝手で。
――終わらせてくれ、この体に流れる呪われた血ごと。
いつの頃からか、常に彼女の父であり、兄であろうとしてくれていた、一つ年上の不器用な少年は。
――軛から解き放ってくれ。……愛しいあなた。
かぶっていたすべての仮面を剥ぎ取って、ただの男の顔になって、残酷なことを彼女に希う。
「お義母様……」
とろりと物憂い灰色が、分からぬのかと言いたげにアデリーナを見た。
「父は、あなたを愛して……」
「黙りなさい、レオナルド」
たとえそれが愛としか言いようのない感情だったとしても、アデリーナが求めた愛とは別のもの。
レオは大人しく口を噤んだ。義理の息子という立場は複雑で、扇の陰で涙が頬を濡らしているかもしれないのに、手を伸べることすら憚られる。




