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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第5章:夢と踊るワルツ

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66.夢の名残1

 雑踏の中に消えたカルミネと入れ替わるように、アデリーナが漆黒のドレスを揺らしてレオの前に立った。


「レオナルド」


「――振られてしまいました」


 先手必勝とばかりに、レオは物憂く微笑む。


 アデリーナはカルミネが消えた方向に目をやり、しばらく視線をさまよわせていたが、やがて上品に目を伏せた。


「帰りましょう……」


「是非。でも、いいのですか」


「少し、疲れてしまって」


 アデリーナは酔いの回った美しい目をしていた。ディーエスィーレの奥方に接待でもされていたのだろう。謎のご令嬢のことはこれ以上追及されずに済みそうで、レオは密かに胸を撫で下ろす。


「あ」


 暇乞いを済ませた帰りのゴンドラの中で、普段は淑女の鑑のようなアデリーナが、らしくもなく足元をふらつかせた。


「お義母様、大丈夫――」


 アデリーナがゴツンと音を立てて不器用に着席する。


 え。あり得ない。


 いや待て、それよりも。


「お義母様、今の音は……?」


 淑女のドレスを構成する素材にはあり得ない、硬い音だった。


「ああ、これ……」


 アデリーナがドレスのスリットに手を入れる。白鳩でも取り出したかと見れば、それはやや小ぶりではあるものの、男性用と思しき黒檀の銃だった。


「なっ……何で、こんなもの」


「フランチェスコが」


 またあの人か……。


 レオはうんざりと眉をひそめた。


 皆が口々にその静謐な美貌を称え、シルヴィオなどは「高潔なお人柄」と人格まで絶賛し、レオの最愛の養父かつ外見も中身も文句なしの男前、ジャコモと親友だったからには、そこそこいい男だったのかと思わなくもない実の父だが、レオの知る限り「運命のひと」を取り違え、「運命のひと」と勝手に死に、結局誰のことも幸せにしなかった男である。


 本当にろくなことをしない……。


「何故」と問うレオの声は、咎めるような響きを帯びた。矛先は勿論、父である。


「これで、殺してくれと」


「誰を」


「あのひとを」


 ――フランチェスコを。


「何故……」


「好きな女ができた、と」


「だから、何故!」


 アデリーナがぼんやりとレオを見つめた。


 精緻な宝飾品めいて美しいアデリーナの唇は、今宵キプロスのワインで湿され、魔法をかけられたようだった。唇はゆっくりと弧を描き――。


『あなたに、殺してほしい――アデリーナ』


 彼はあの時そう言った。


 跪いて愛を乞うように。


『――その女以外、何も欲しくない』


 夢見るような瞳で、何かをなぞるように呟いて、アデリーナが少し首を傾げた。それは誰かを見つめる時の、フランチェスコの癖だろうか。


『私を殺せ、アデリーナ』


「どうして……」


 アデリーナがふっと微笑んだ。レオの呟きは、そのままあの日の彼女の言葉だったから。


 ――どうして……?


 ――あなたを裏切った私が憎いだろ。


 まどろむような灰色の瞳が、穏やかにアデリーナを見つめている。


『でも、あなたを罪人にはしない。私の手の上から持って』


 そう言って、フランチェスコは銃口を自分の胸に当て、銃を持つ彼の手の上にアデリーナの手を導いた。


『引き金を』


 止せ、とレオが首を振る。


『皆には私が自害したと言え。そうして、あなたは今度こそ、あなただけを愛する男を――』


 アデリーナはそこでフランチェスコの振りを止め、


「――バン」


 指で作った銃で、レオの側頭部を撃った。


 二人きりの狭い船室で、声も出せない義理の息子に、アデリーナは静かに言った。


「わたくしが短気だったら、ここで撃っていたところです」


「……」


 実際に撃ったかと一瞬でも思ってしまったことは、棺まで持っていかなくてはなるまい。


「彼はわたくしにもその方にも良い顔をしようとして、その方には愛を、わたくしには命を差し出そうとした」


 普段はむやみに感情を表すことのないアデリーナだが、今夜はたがが外れているようだ。人形のように美しい唇が、小気味よく吐き捨てた。


「馬鹿な人」


「……」


 レオはひたすら首を垂れる。反論できないしする気もない。


「本当に、馬鹿な人」


「はい」


 一度では言い足りなかったようだった。


 確かに褒められた行為ではない。そんなことをされても、義母がちっとも嬉しくなかったらしいことも分かった。だが、レオには父の気持ちも分からなくはなかった。彼なりの誠意はもう少し、評価されてもよいのではないか。そう思うのは、レオが男だからだろうか。


「本当に何も分かっていない!」


「は、はいっ、すみません」


 心の内を見透かされたかと、レオがびくびくと謝罪した。


 アデリーナは思いの丈をぶつけるように、扇でぴしりと壁を打った。


「旧家に生まれながら、あのひとは貴族の婚姻というものが、何も分かっていなかった」


 心なしか先程より声も大きくなっている。義母にこんなに飲ませたのは誰だ。


「黙認する、とわたくしは言った。子が生まれたらわたくしが引き取り、嫡子として育てる、と」


 それは破格の申し出だった。相手の女も感謝こそすれ、アデリーナを恨む理由はない。だが、フランチェスコは首を横に振った。


 ――駄目だ。


「どうして」


 もう何度目か分からぬ問い。決して得られぬものを求め、扇を持つ手が戦慄わなないた。


 ――それほどに、愛しているの。


 ――愛している。


 とらえどころのない、淡くけぶる灰色の瞳がまっすぐにアデリーナを見た。


 ――私を殺して自由になれ、アデリーナ。


 発条ぜんまいの切れた人形のごとく、アデリーナはがくりとうなだれた。


「そんなこと、できるはずがない――!」


 引き金を引くことも、嫌だと泣いて縋ることも。


 誰よりも気高く聡明な、アデリーナ・バーチに何故そんな真似ができようか。


「軽率だと彼をたしなめた。大切なお役目を引き継ぐ身でありながら、と」


 完璧な淑女の仮面の内側の、無数の小さな傷を誰が知ろう。けれども冬の湖水にけぶる冷たい灰色は、どこまでも身勝手で。


 ――終わらせてくれ、この体に流れる呪われた血ごと。


 いつの頃からか、常に彼女の父であり、兄であろうとしてくれていた、一つ年上の不器用な少年は。


 ――くびきから解き放ってくれ。……愛しいあなた。


 かぶっていたすべての仮面を剥ぎ取って、ただの男の顔になって、残酷なことを彼女にこいねがう。


「お義母様……」


 とろりと物憂い灰色が、分からぬのかと言いたげにアデリーナを見た。


「父は、あなたを愛して……」


「黙りなさい、レオナルド」


 たとえそれが愛としか言いようのない感情だったとしても、アデリーナが求めた愛とは別のもの。


 レオは大人しく口を噤んだ。義理の息子という立場は複雑で、扇の陰で涙が頬を濡らしているかもしれないのに、手を伸べることすら憚られる。

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