65.夢と踊るワルツ5
「指輪ですよね? うっかり外れるなんて、まずないですよね?」
カルミネはその点がどうにも引っかかるようで、仮面の奥で聡明な美女のように眉をひそめている。
「本人が外したんでしょうか。でも何故……?」
「さ、さあ……」
マリーノめ……。二人が何に耽っていたのか、カルミネに説明していないのか。
レオの中では、こういうことはマリーノの担当である。
「指輪を外す……いつ……どんな状況で……」
おっと。まずい。
獣になって奥方とそういう行為に及ぶ為だよ、なんてレオにはとても言えなかった。だって、普段の時ならまだしも、今のカルミネはとてつもなく愛らしいご令嬢の姿である。よりにもよってジェルソミーナそっくりの。
そんな清らかな乙女の耳に爛れた言葉を吹き込むなど、紳士としてできなかった。
「駄目だ……。何も思いつきません」
「いいんだよそれで。多分そのうち分かってくることもあるよ」
しょんぼりと肩を落とすカルミネの頬に手を当て、レオは「頑張ったね」というように撫でた。
「じゃあ、僕はそろそろ……」
「うん……」
互いに口ではそう言いつつも、レオとカルミネは自然に顔を寄せ合った。逢瀬の終わりを惜しむ恋人たちが、口早に思いを伝え合おうとするように。
「マリーノやマルコは元気?」
「マリーノ様には僕もここしばらくお会いしていませんが、つつがなくお過ごしと存じます。兄の方もお陰様で元気にやっております」
「お前、今、マルコのことを兄って言った?」
「これは失言でした。共和国の理想の貴公子、パツィエンツァ家のマルコ様のことは、勝手ながら一方的に兄と慕っておりましたのでつい」
「マルコはお前と会ったことがないって」
「そりゃそうですね。ジェルソミーナ尼からお話を聞いて、僕が勝手に憧れているだけですので」
「……」
ああ言えばこう言う。
一説によれば、女は相手と目を合わせたまま、堂々と嘘が吐けるという。それならば、この子は紛れもなく女だ。
「そう……」
「はい」
押し負けたのはレオの方だった。
「まあ、僕はマルコが元気なら、それで……」
元気というか、無事なら。
レオの地元、サン・ポーロ地区のど真ん中で、着任早々レオに因縁をつけてつらく当たった貴族として、一瞬で悪名を轟かせたマルコである。
「本当はすごく優しい紳士なのに、皆に誤解されちゃって……」
恐らくマルコは今、サン・ポーロ地区を一人で歩けないくらいの状況になっているだろう。
「別にいいでしょう。むしろ、それほど真に迫っていたのなら上々、とご本人は気にしていない様子でしたよ――と、ジェルソミーナ尼が」
「ふん……」
敵わないな、マルコには……。
本物の貴族の振る舞いというものを、背中で見せてくれる人。マリーノと同じで、共和国全体の利益の為なら進んで泥を被り、しかも平然としている。
「あ」
何かに気づいたカルミネが、レオからすっと身を引いた。
「旦那、僕はもう消えた方がよさそうです」
「ああ」とレオも頷く。
威厳に満ちた黒の女教皇、アデリーナが人の波の間からこちらに向かって歩いてきていた。
「旦那……?」
けれど、逢瀬の終わりはあまりにも突然で。
行かせてやらなくちゃと頭では分かっているのに、レオはつい、カルミネの手を引いてしまった。
「ねえ、僕たち……踊る必要あった?」
「えっ」
馬鹿みたいな質問だった。わざわざ引き留めてまで訊くことではない。
カルミネはふっと微笑んで、優しく押し戻したレオの手を、名残惜しげに少し握ってくれた。
「出会ったばかりの男女がいきなり長椅子に直行したらおかしいでしょう。何事にも物語が必要です」
「そうか……」
ヴェネツィアはどこもかしこも舞台、そこに生きる者みな役者。
初対面のレオとご令嬢は偶然のワルツで意気投合、しばし親しく語り合う為、手に手を取って長椅子へ――背後にそんな設定があったとは、今初めて知ったけど。
カルミネは薔薇の蕾がほころぶように、可愛らしく頬を染めた。
「踊るのは少々久し振りだったので、ちょっとはしゃいでしまいました」
「うん。楽しそうで良かったよ」
何故、女の子のパートが踊れるのだろう。
「じゃ、旦那、また」
レオの胸に一際鮮やかな印象と、ちょっとした疑問を残し、カルミナ嬢が身を翻す。




