64.夢と踊るワルツ4
レオは宥めるようにカルミナ嬢の華奢な肩を抱いた。
「まあ、そう悪いことばかりでもないさ。考えてもごらんよ。こっちが黒幕の正体、ひいては彼らの企みに勘付いているということを、彼らはまだ知らない」
老練なパーリアも、まさか思いつきもしないだろう。彼の関与を示す証拠は何一つないのに、「こんなことができるのは彼ぐらいしかいない」という理由で彼にたどり着いたなどと。
「彼らは今、計画通りに事が進んでご満悦だ」
彼らから見れば、若輩者の総督も、忌まわしい半魔も、百戦錬磨の彼らがちょいと起こしてやった嵐の中で、為す術もなく翻弄される無力な小舟に過ぎない。
「こっちのことは完全に侮っているから、僕らにとっては今が好機だ」
「何か秘策があるので?」
かつて界隈の神童と呼ばれたチェスの名手はにんまりと笑った。
「イシドロとテオ、それと問題の凶器さえこっちが押さえられれば、このゲームは僕らの勝ちだ。パーリアさんの筋書きがどんなに完璧でもね」
実行犯さえ確保できれば、後はあちらの息のかかっていない尋問官をマリーノが用意するだろう。そうなれば、いずれ必ずパーリアにたどり着く。凶器が明るみになれば、少なくともレオの嫌疑は完全に晴れ、レオを犯人に仕立て上げようとした者たちは、一転して窮地に立たされることになるだろう。
「さすが旦那。おっしゃる通りです。問題は、どうやってそれを……」
「うん。だから、カルミネ。ここからは僕が頑張る番だと思うんだ」
レオはカルミネの頬を両手で柔らかく挟んだ。
「旦那……?」
多分、理屈ではないのだろう。自分より年若い者を、年長者として守ってやりたいこの気持ちは。
「カルミネ、お前が来てくれて嬉しかった。でも、僕の希望としては、お前にはここらでただの使い走りに戻ってほしい」
「何故ですか。僕ではお役に――」
「違う」
そうなるよね。でも、今なら分かる。
マリーノや祖父がレオを大事に思ってくれていることも。守られる側には、それは伝わらないものなのだということも。
レオは白絹の奥の瞳を物憂く覗き込んだ。
「お前、マリーノにもそうしろって言われてるだろ」
「……」
マリーノがレオだけを遠ざけて守るとも思えない。案の定、カルミネは気まずげに黙り込んだ。
レオは叱るでもなく淡々と訊ねた。
「トゥリパーノの情報の出どころはジャンニだな?」
「はい」
諦めたのか、カルミネは素直に認める。
レオは吸いつくような少年の頬を優しく包み込んだまま、
「助かったよ、ありがと。でも、ジャンニとももう接触しては駄目だ」
「ですが」
「カルミネ。奴らは人の命を奪うことを何とも思っちゃいない。邪魔だと思えば、子供でも容赦なく殺す」
レオは真剣な面持ちで、カルミネの目をじっと覗き込んだ。
「お前に何かあったら、僕は生きていられないよ」
「旦那ァ、そこまで言ったら嘘ですぜ!」
そう言って、カルミネが顔をぶるぶる振ったので、レオはうっかり手を離してしまった。
危ないところだった……と、カルミネがレオから顔を背けながら、真冬の運河に落ちかけた人のように胸を押さえる。
「いや、危ないのは今の状況だよ」と、レオはカルミネの肩を抱き、再びレオの方を向かせて顎をすくった。こんな恰好だが中身は男。気安いものである。
「いいから、お前はしばらく大人しくしてろ。僕があの人の陰謀を暴くまで、少しの我慢だから。……ね?」
「……」
「……頼むから」
「……」
カルミネがなかなかうんと言わない。
レオは仕方なく妥協した。
「分かった……。僕が一緒の時ならよし。でも、お前が単独で動くのはだめ」
「ですが……」
「お前の主は僕だろ? 主の言うことは聞くものだよ」
こんなことを言っている時点で、レオが彼に主と認められているかどうか怪しいものである。
カルミネは少し考えてから、渋い顔でようやく「分かりました」と頷いた。
「ところで旦那、補佐官殿が黒幕だということと、サン・ポーロの魔獣の正体は、ジャンニにもまだ話していないんです。でも、彼にだけは話しておいてもいいでしょうか」
「ああ、いいよ」
ジャンニにならば、むしろ話しておいた方がいいだろう。信じてくれるかどうかは定かではないが。
「ありがとうございます。では、ジャンニとの接触はそれで最後にしますね」
「うん。ちゃんと用心するんだぞ。ジャンニにもそう伝えて」
「承知しました」
レオとしては即時撤退させるつもりで言ったのだが、何故か最後にもう一度ジャンニと会うことを許可させられてしまっていた。この交渉上手。人間とはいえ、ヴェネツィア人はこれだから。
「あのさ……ジャンニは元気にしてる?」
「ええ、まあ。旦那に会えなくて寂しそうですが」
「……寂しい? 怖がってるの間違いじゃなく?」
「怖がる? ジャンニが?」
岸壁を洗う波のように、カルミネが楽しげに笑った。
「アハハッ。まさか」
「でも、ジャンニは十人委員会の調査官だし、ロベルトと仲がいいし」
「組織やロベルトさんがどう思っているかは知りませんが、ジャンニはジャンニですよ」
――ヴィンチ殿、何なりと。
付き合いのいい黒目黒髪の青年が、レオの瞼の裏でにかっと笑う。
ね? とカルミネが愛らしく小首を傾げ、令嬢のように微笑んだ。
「さて、僕はそろそろ行きますが、他にお話は?」
え。もう?
レオは急いで話題を探す。何か言うこと……ああ、あった。これを言っておかなくては。
「ええと、トゥリパーノの獣化なんだけど。あれはどうやら、彼の一族が昔受けた呪いに端を発してるようなんだ」
「おや、そうだったんですか」
「うん。六百年くらい前、トゥリパーノ家はそれ以降すっごくランダムに、一族の直系男子の誰かが獣の姿になる呪いを得た」
原因については、ご先祖様も推測の域を出ないようなので黙っておく。どうせそこは重要ではない。
「当時のトゥリパーノ家当主は、クッキアイオ家の力を借りず、秘密裏に対処した。恐らく別の呪いをぶつけて、相殺する形を取ったんだ。だから獣の呪いを得た者は、それを抑える為に、別の呪いを宿した護りを身に着ける。恐らく指輪だ。あの一族には、特定の者だけが肌身離さず身に着ける指輪があるらしい」
レオがこんなに詳しく事情を知っているのは、クッキアイオ家の歴代当主たちが連綿と書き連ねてきた覚書のお陰である。
トゥリパーノ家の呪いについて、最初に書き残した遠いご先祖、フィリッポの後を襲った歴代当主たちもまた、将来の脅威に備えてトゥリパーノ家の監視を怠らず、世代を超えた観察日誌のようなものを残していた。
「そうだったんですか……」
カルミネが感慨深げに頷いた。
「ということは、指輪さえ外さなければ、トゥリパーノは獣化しないということですか?」
「うん、多分」
「あの夜は外した」
「……うん」
あの夜どころか、奥方との逢瀬の夜は基本外したと思われる。恐らく数刻程度であれば、獣化しても自我を保てるのだろう。あの放蕩者が何故それを知っていたのかというのはもう、やってみたんだろうなとしか。




