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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第5章:夢と踊るワルツ

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62.夢と踊るワルツ2

 この方は確か、マリアンジェラ様とおっしゃったっけ……。


 レオはディーエスィーレのご令嬢の顎をちょいとすくって上向かせ、父親似のお顔を物憂く覗き込んだ。


「レ……レオナルド、様……?」


「……」


 令嬢の視線がうっとりと、とろけるような甘い灰色に吸い込まれる。


 ――ご存じでした? あなたは僕の花嫁になったが最後、僕と一緒に幽閉されてしまうんですよ……?


 レオはご令嬢と目を合わせたまま、ふっと微笑んだ。


 ――なぁんてね。


「マリアンジェラ様!」


「お気を確かに!」


 失神したご令嬢に皆の注意がいった隙に、レオは立ち上がってすっと気配を消した。


 ――外で風に当たってこよう。


 適当なところで戻り、気分が優れないとか何とか言えば、彼らももう引き留めることはないだろう。ディーエスィーレ家とて、これ以上僕に娘を近づけたくないはず。


 広間は丁度、一曲目のワルツが終わったところだった。レオは気配を消しているのをいいことに、踊り終えた紳士淑女の真っただ中を、フン族の王アッティラのごとく悠々と突っ切っていく。


 きらきら輝く濃緑の瞳と目が合ったのはその時だった。


 まさか……僕が見えてるの?


 今のレオは広間の中央を飛び回る、蝿くらいにしか認識されていないはずだった。だが、その瞳の持ち主は迷いのない足取りで、まっすぐレオに近づいてくる。


 結い上げた鈍色の金髪に淡い色の薔薇を飾り、目元に白絹の仮面をつけた彼女は、ほっそりとした腕を覆う手袋も、ドレスの色も淡い薔薇色。


 神よ――これは夢ですか。


「ジェルソミーナ……!」


 レオが気配を消すのを止め、彼女の手を取った時、狙いすましたように二曲目のワルツが始まった。


 白絹の仮面の令嬢は、レオに取られた手をすっと組み替え、誘いかけるようにレオを見る。


 ――踊るの? いいけど……。


 最初のお辞儀をなし崩しに省略し、レオは令嬢と二人で流れるようにステップを踏み出す。くるくる、くるくる、軽やかに回る彼女はまるで、岸壁を洗う波のよう。反らされた背を引き寄せて、進行方向に優しく誘導すれば、令嬢は素直にレオのリードに従う。弾むような足取りで、体の重さも知らぬげに。


 彼女の息遣いがすぐそばにあって、これは夢かとレオは何度も自問した。だって、現実とは思えない。いつか二人で見た朝焼けの、淡い薔薇色が見せた夢のよう。


 夢でもいい、とレオは思った。


 ジェルソミーナ。夢でもいいから、どうかこのまま僕の腕の中にいて――。


 曲が終わり、令嬢が優雅に一礼すると、レオは彼女に身を翻す隙を与えまいとするかのように、彼女の手を取り唇に当てた。


 ジェルソミーナ、と言いかけるレオを制し、令嬢は皆から離れたところにある長椅子に目顔でレオを誘った。


 あそこで、お喋りしましょう……。


 レオは操り人形のようにこくりと頷いた。


 手に手を取って長椅子に向かいながら、さすがにこれは出来過ぎじゃないかと頭の片隅で思う。


 ――これは僕の願望が見せてる白昼夢か……?


 夢ではないことはすぐに知れた。


 仲睦まじくレオと隣り合って座った令嬢が、大胆にもレオの耳元に唇を寄せ、気安い口調で囁いたからである。


「旦那ァ、これでやっと話ができますね」


「――カルミネ?」


 夢なら今すぐ覚めてほしい――。


「そうですよ。もしや誰かとお間違えで?」


 カルミネは可愛くしなを作り、レオに体をすり寄せた。


「ダンナァ、会いたかった」


「うん……」


 レオは呆然とカルミネの肩を抱き、おふざけに付き合ってやった。


 それにしても……。


 よく化けたものだとレオは思う。


 女の子のように滑らかな肌。さくらんぼの唇。そこまではいつもと変わらないが、フリルたっぷりの立襟のドレスの下で弾む、この柔らかな曲線は。


 元々可愛らしい子ではあったが、今のカルミネはどこから見ても女の子にしか見えなかった。


 何かを察して離れようとするカルミネを、レオがぐいと引き寄せる。


「これは、何を詰めてる……?」


 レオが遠慮なく胸に這わせた手を、カルミネがすげなく払い落した。


胸パッドリリエーヴォ・デル・セーノですよ」


「ほーう」


 胸の浮彫彫刻リリエーヴォ・デル・セーノとは。なんと芸術的な名称か。


「女装用にこんなのがあるの?」


「いえ、ご婦人方がちょっとボリュームを足したい時なんかに」


「へえ……」


 返事が上の空になった。


 レオはせいぜいダ・ティーノの永遠の看板娘の、たっぷりとした柔らかい胸しか知らないが、これはこれで。


 コルセットの上に盛り上がっているその部分は、ファウスティーナの胸より少し硬くて、弾力があって、びっくりするほど生々しい。


「いたたた」


 払っても払っても戻ってくるレオの手が、容赦なくつねりあげられた。


「……もうしない」


 怖い顔で睨まれ、そう誓わされたレオが、恋人の機嫌を取るようにご令嬢の頬を撫でた。


「お前は本当に、いろんなものを持ってるねえ……。あの顔の火傷の痕といい」


「ああ、あれは……」


 マスケラ・リトゥラット――二枚目の仮面マスケラだと、カルミネは悪びれもせずあっさりと白状した。


 肖像画リトゥラットのように描かれた、もう一つの顔。


「この悪戯小僧」


 義母が来なければ、あれに引っかかっていたのはレオだったのだ。


「まさかとは思うけど、今日の出で立ちも悪戯の一環かい」


「そんな訳ないでしょう。この恰好にどれだけの手間と時間がかかったと思ってるんですか」


 ひとえにあなたと接触する為に、ここまで頑張ったんです、と美貌のご令嬢はいたく気分を害した様子だった。


「でも、お前……」


「お忘れですか。僕はあなたと契約したんです。ヴェネツィア総督でもクッキアイオ家でもない。レオナルド・ヴィンチ様――僕の主はあなただけです」

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