59.放蕩者の帰宅1
ああ、ここにいると落ち着く……。
館の奥まったところにあるクッキアイオ家の図書室は、レオの好みよりはやや整然としていたが、人里離れた森のごとく薄暗く、しかも血も凍るほど寒かったから、最初からレオの気に入った。
欲を言えばもう少しじめじめしていてもよかったのだが、この部屋本来の用途を考えればそこまでは求めまい。
読みかけの書物を手に取り、心地よい寝床を見つけた獣の子のように、ふかふかの大きな椅子に身を預ける。
ジェルソミーナに手ひどく振られ、カルミネにあっさり捨てられた夜、傷心のまま義母と家令に問答無用で連れ戻されたレオだったが、慣れない自邸での日々は意外にも心穏やかなものだった。
たまにはこういうのも悪くないかな……。
「レオナルド様、紅茶をお持ちいたしました」
「うん。ありがと」
何かにつけてシルヴィオがレオを構ってくること以外は。
――しばらくは家で大人しくしていなさい。
祖父の前に出頭し、ぶっきらぼうにそう告げられた時、祖父は罰としてではなく、純粋にレオの身を案じて自邸に呼び戻したのだと分かった。
それでも、お小言の一つも言いたいだろうとレオが大人しく待っていると、祖父は少し考えてから、ぎこちなくレオを抱擁した。
――お帰り、レオナルド。
――あっ、はい。
謹慎という名目で、大いなる祖父の庇護の下、ぬくぬくと暮らす怠惰な日々が始まった。
おじいちゃんが孫に甘いのって、庶民も貴族も同じなんだな……。
シルヴィオは湯気が出ているティーカップを差し出しながら、ちくりと言った。
「ご精が出ますな」
「まあね」
レオが今読んでいるのは、クッキアイオ家の冷たい図書室の奥でひっそりと眠っていた、ヴェネツィアの闇の歴史である。
これによると十三世紀初頭、ヴェネツィア華やかなりし第四回十字軍の頃、トゥリパーノ家のアントニオは、子孫に代々受け継がれる「何らかの」呪いを得たらしい。
らしい、というのは事前にも事後にもクッキアイオ家には何の知らせもなかったからで、アントニオは事が公になるのを恐れ、内々に対応したのだろう、と当時のクッキアイオ家当主、フィリッポが書き記している。
彼はどうやら政敵を呪おうとして、返り討ちにあったようだ、と。
レオはフンと鼻で笑った。子孫が子孫なら先祖も先祖。ヴェネツィア一千年の歴史の中で、呪われた一族という呼び名は何も、クッキアイオ家に限ったものではないらしい。
「レオナルド様、本件から手をお引きになるよう言われているはずですが」
「これは今後の為の勉強だよ。何も知らないまま後を継ぐ訳にはいかないからね」
レオはご先祖の覚書を抱え込んだまま、しれっと言い返した。
シルヴィオはふてぶてしい若君の顔をしばらく眺め、咎める風でもなくぽつりと言った。
「アルジェント様には無い美点ですな」
「え。おじい様ってこういうの全然読まないの?」
「全然ということもございませぬが、読んでいる暇があれば実際に対峙した方が早い、と」
「ふーん」
いかにも祖父らしい。
シルヴィオは遠くを見るように目を細め、
「気づけば図書室にいらっしゃるのは、フランチェスコ様と同じですな。キーヴァ様から受け継いだ気質なのでしょう」
と、レオの知らない二人を重ねて柔らかく微笑んだ。
「ふーん……」
こういうのは居心地が悪いというのではないが、何となく面映ゆい。
誤魔化すように書物に目を落とし、レオはふと気になって訊ねた。
「おじい様はご自分の代の記録は残しているのかな」
残された手記に決まった形式はなく、記述量の多寡も人それぞれである。まだすべてを確認した訳ではないが、まったく何も残していないご当主もいるのだろうか。
「残してはいます」
驚くほど口早に告げ、シルヴィオはさっと話題を変えた。
「どうやってそれを見つけたのです?」
クッキアイオ家歴代当主の覚書は、図書室の最奥にある秘密の小部屋で厳重に保管されていた。シルヴィオのこの口振りからして門外不出の禁書であろう。
レオは物憂く首を傾げて答えた。
「隠し扉があったから」
奥にまだ空間でもあるかのような、不自然な空気の流れに気づき、レオは獣の子のように空気の匂いをたどった。そうしたら、装飾に見せかけた隠し扉があった。そんなの――。
「開けてみるに決まってるよね」
「そうですなぁ……」
シルヴィオは悲しげな目をじんわりと細めた。
「駄目だった?」
「いえ……どちらにしろ、近々ご案内する予定でございましたので」
ふうん、とレオは気のない素振りで、
「近々って、この件をおじい様が解決した後?」
「近々は近々でございますよ」
シルヴィオがおっとりと微笑むと、レオも微笑んだ。
悪魔のように妖艶な笑みに、シルヴィオが笑顔のまま警戒する。
「ひとつ、確認したいことがあるんだけど」
「何でございましょう」
「ヴェネツィアを守るお役目は、クッキアイオ家の人間が代々一人で担うんだよね」
「ええ」
とろりと物憂い灰色の瞳がシルヴィオを絡めとり、嘘もごまかしも先に封じた。
「もしかして、僕が魔を祓ってしまったら、その瞬間からおじい様は力を失う?」
「その通りでございます」
シルヴィオはあっさり肯定した。
やはりそうか――。
父と子、あるいは孫が、協力し合って魔を祓ったという記録はない。
――この力を得る者の血脈が、未来永劫お前たちの小さな沼地を守るだろう。その者の後にはその子供が。その子供の後にはまたその子供が。
お役目を担うのは、一人ずつ、順番に。水鳥がそう決めたから。
レオがフンと自嘲した。
「知らなかったのは、僕だけなんだ……」
マリーノは――ヴェネツィア総督は知っていただろう。その上でレオを指名した。国家元首の意向とあっては、祖父も受け入れざるを得なかった。
「レオナルド様、わたくしが思いますに、アルジェント様にとってはあまりにも自明のことであった為、お伝えするにいたらなかったかと存じます。あの通りの方ですし、悪気は……」
「おじい様が僕を呼び戻したのは、僕では力不足だとはっきり分かってしまったからだね」
祖父の独断ではない。彼もそう判断したのだろう。
「……マリーノも」
皆が先回りした。
頼りにならないひよっこに、まかり間違って力が受け継がれてしまう前に。




